やがて夕暮れがⅢ

1980年代作 
 やがて夕暮れが(3部) 
   
   
   


   
   
                    はだい悠
   
   * * * * * * * * * * * * * * *
   
 十月も終わりに。
 その土曜日の朝、マサオは郵便配達のオートバイの音を耳に
しながら目覚めた。だが、なぜか胸苦しさを覚え、鼓動が早ま
るのを感じた。マサオは、今日は土曜日なんだと自分に言い聞
かせながらふたたび眼を閉じた。
 昼前にふたたび眼が覚めた。窓の外は相変わらず薄暗い。も
う朝のように胸苦しさはなかったが、なんとなく体がだるかっ
た。マサオは布団に入ったまま、そのありかを確認するかのよ
うに思いっきり手足を伸ばした。全身から軽い運動の後のよう
な充足感が伝わってきた。起きて歩いたが、疲労が残っている
せいか、ふらついた。顔を洗ってさっぱりしても、頭はもやが
かかったようにぼんやりとしている。マサオは窓も開けずにふ
たたび布団に横たわった。
 休日といっても外に出るのがなんとなく億劫に感じた。
 そして午後。マサオは頭に入らない新聞を何度も読み返した
り、窓からラスにぼんやりと眼をやりながら、ただ日が暮れる
のを待った。
 やがて夕暮れが。タバコが切れていることに気づいたマサオ
は、部屋を出た。ひんやりとした外気には匂いがあった。マサ
オは夕刻の気配に浸るように大きく吸い込んだ。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
 大家の源三は風呂から上がったところであった。マサオが来
たのも気づかないようすで、全身が濡れたまま、台所の奥の薄
暗い風呂場の入り口で、うめくようになにやら呟きながら、痴
呆のようにうなだれ、力なく立ったいた。タカがバスタオルを
持って奥の部屋から出てきた。
「高橋さんが来たよ。いま拭いてやるからね」
と、まるで子供をあやすように言いながら、源三の体を拭き始め
た。タカは物を扱うように無造作だった。拭き終わると、奥の
寝床まで、タカの肩にもたれかかるようにおぼつかない足取り
で歩き始めた。やせこけた体、異様に膨れ上がった腹がはげ頭
のような光沢があった。マサオの前を通るとき源三はマサオに
笑いかけたが、笑顔はぎこちなく眼だけが笑った。その眼もマ
サオであることを認めていないようであった。鈍く光る瞳、灰
色がかった顔の皮膚、弛緩した唇、その表情にはかつてタカを
怒鳴っていたときのような荒々しさはなくなっていた。意志も
生命のみずみずしさも伝わってこない蝋人形のような表情であ
った。
 甘える子供のように寝床に横たわり、バスタオルの端を握り
締めて離さない源三にタカは、
「なんだねえ」と子供をしかりつけるように言いながら強引に
源三の手からバスタオルを剥ぎ取った。そして「もうこれなん
だら」とマサオを意識したように声を上げながら、冗談ぽくバ
スタオルで源三を軽くたたいた。母親のように振舞うタカの前
では、源三は赤子のように無邪気であった。
 タバコを譲り受けたマサオは階段を昇りながら源三に表情を
思い浮かべた。生気のない唇、灰色がかった皮膚の色、あれが
死の影なのだろうかと思った。
   
   
 翌日の日曜日、朝から晴れ渡っていた。
 マサオが目覚めると、窓の外は快晴を思わせるかのような陽
射しに眩しい。ときおり鳥や犬の鳴き声が遠く響き渡り、穏や
かな外の気配が伝わってくる。いつものような胸苦しさも神経
の苛立ちもなく、マサオはいつになく安穏とした気分であった

 十時ごろ、マサオは穏かな陽気に誘われるように外に出た。
日差しはやわらかく、ときおり乾いた風が砂埃を舞い上げては
、マサオの体にまとわりつきながら、路地から路地へと通り過
ぎるように吹き抜けていった。車の排気音がいつもより穏かに
感じた。そして歩いている人々も通り過ぎる車も町の風景の一
部のように淡々として調和の取れたものに思えた。そんな風景
に浸るような気持ちで歩いていたが、ふと、郷愁にも似た静か
な感動とともに、こうしては居れないという何かにせきたてら
れるような思いに捕われた。そして、どこか遠くに自分が目指
すほんとうの目的があるような気がした。
 マサオはいまの充実した気分を乱されないように人ごみを避
けながら、そしてただ風に身を任せるように、当てもなく歩い
た。
 町外れの小さな公園に通りかかった。日曜日にもかかわらず
他に人影はない。通り過ぎる人も少ない。
 マサオはベンチに腰をかけた。町の騒音を通して、風に揺れ
る木々のざわめきがかすかに聞こえる。マサオは日向ぼっこを
する老人のようにゆっくりともたれかかった。そしていつもと
違う町の気配に身をゆだねた。

 マサオの斜め前に、公園の樹木を通してバス停が見えた。い
つのまにか一人、二人と増え、人々が集まっている。ベンチに
座る者、ぼんやりとたたずむ者。そして気づかぬように消えて
いく。しばらくするとまた人々が集まり、また気づかぬように
消えていく。
 そして今少女が二人ベンチに腰をかけている。やわらかい陽
射しを浴びながら楽しげに話している。
そのときまでマサオは《次から次へと人々はいったいどこへ行
くのだろう? いまさらどこへ行っても同じではないか!》と
思っていた。だが、楽しげに話す少女たちを見ていると、どこ
から出かけることは、やはり楽しいことであり、夢のあること
のような気がしてきた。
   
 淡い陽射しを受けてバスが音もなく通り過ぎていった。起こ
った風で髪を乱しながら、少女たちか驚いたような表情でその
バスを見送ったあと、無邪気な仕草で笑い始めた。話しに夢中
になっていて乗り過ごしたのだろう。
 風が何かを舞い上げた。枯葉だ。公園の木々の所々が黄色や
だいだい色に変り始めていた。そのはるか遠く、青い空のもと
を白い雲が穏かに流れているのが見えた。よく見ると雲は徐々
に形を変えているのが判った。広大な空間のもと、自由自在に
形を変えながら自由気ままに漂う雲を見ているとマサオは、雲
にも人間以上の生き生きとした表情があることに、いまさらの
ように気づいた。そしてぼんやりと眺めていると、自然と気分
が晴れ晴れとしていくのを感じた。マサオはふと、いままで自
分は空を忘れていたことに気がついた。紅葉し始めた木々のあ
いだから小鳥のさえずりが聞こえてきた。マサオは自分に酔い
しれるようにゆっくりと眼を閉じた。そして、これから金色に
染まるであろう秋の景色を思い浮かべた。
   
 帰り道を歩きながらマサオは、街路樹のイチョウの葉がまだ
青々としているのに気がついた。ほんとうに色が変るんだろう
かと思うとなんとなん不安になった。

 夕方になると、太陽に傾きとともに外気が急速に冷え込み、
まだ埃っぽいぬくもりをのこは部屋に流れ込む。窓を閉めても
、夕暮れ時のあわただしい様子が伝わってい来る。やがて穏か
に秋の日が暮れていく。
   
   
 そして夜。マサオはいつもより早めに寝床に入った。最初手
足にひんやりとする布団も、そのうちに程よい暖かさになる。
いつもと違い手足が自分のもののように感じ充実した気持ちで
あった。夜の静かな気配のなかで、遠くを走る電車の音や、風
のざわめきが聞こえ、外の様子が自分と深くかかわりのあるも
ののように、生き生きと伝わってきた。それはまるで心に触手
のようなものがあって、それが徐々に外へと延びながら、より
外のもの、より遠く離れたものを捕らえて、撫でまわしている
ようであった。マサオは心の広がりを感じながら満ち足りた気
持ちになっていた。こんな気持ちは久しぶりのような気がして
懐かしい感情に捕われた。そしてマサオは今まで忘れていたの
だということに気がついた。こうして何にも誰にも煩わされる
ことがなく、夜の静かな気配に耳を傾けていることが、なにに
も変えがたいひと時のように思われた。そしてこのことは本来
の自分の姿、自分がほんとうに望んでいる幸福の形なのではな
いかという気がした。これから毎日が今日のように平穏であれ
ば良いなと思った。だが明日からのことを思うとまたイライラ
とした自分に戻りそうな気がして不安になった。
   
   
   
 十一月になった。最初の金曜日、朝から冷たい雨が降り続い
ていた。
 昼休み食事を終えたマサオは、椅子に腰をかけ、まだ残って
いる緊張感を覚えながら、ぼんやりと窓の外に眼を向けた。は
るか彼方まで雨雲が低く垂れ込め、雨は止む気配もなく激しく
降り注いでいた。その鉛色の空の下、町は雨に煙、くすんだ風
景が広がっていた。街路樹の枝が風にあわただしく揺れていた
。窓ガラスに吹き付ける雨がパシッパシッと音を立てた。そし
て雨は窓枠に溢れ、飛沫を上げながら流れ落ちていた。
 マサオは不快な寒気を覚えながら、ただ無感動に眺めた。突
然同僚たち爆笑が室内に響いた。マサオは休み時間といっても
、いまだに気軽に同僚たちと話をする気にはなれなかった。打
ち解けない気持ちや、多少の緊張感や、それに思考力が鈍くな
っているせいもあったが、なんとなく億劫であった。
 同僚たちの話しは猥談だった。こういう日には効果的な話題
のような気がした。
   
 マサオはふと眠気を覚えた。窓から眼を離して椅子にゆっく
りともたれかかると、後頭部に心地よいしびれ感を覚えながら
眼を閉じた。だが完全に眠るほどではなかった。相変わらず同
僚たちの笑い声が聞こえていた。
 そんな室内の気配を感じながらうとうとしていたが、深く暗
い穴に落ち込むような感覚とともに、自分の意志からでは泣く
ほかからの働きかけのように、マサオの頭の中に数年前の自分
の姿やあ思い出や風景が浮かんできた。
・・・将来に夢を抱きながら、世界を感動的に見ている自分・
・・
・・・眼にするもの耳にするものすべてをいきいきと、そして
みずみずしく感じて過ごしている自分・・・
・・・周囲にいつも女性たちを意識しあこがれている自分・・

・・・青い空のもと華やかにさいた桜の花々、そしてそれを見
上げる自分・・・
・・・春の風に戯れる女たち、流れる白い雲、暖かい風、かぐ
わしい風の香り・・・
それらはあたかも今目の前で繰り広げられている現実のように
、頭のなかを次から次へとかすめていった。マサオは囚われた
ようにそれらのイメージに身を任せた。音楽のように美しく、
夢のように甘美で涙ぐみそうになった。
 マサオはシーンとなっている気配を感じながら我にかえった
。昼休みは終わっていた。窓の外は相変わらす晩秋の冷たい雨
が降り続いている。マサオは仕事に取り掛かった。もうマサオ
は眼の前の現実を覚めた目で見る自分に戻っていた。
   
 夕方になって雨は止んだ。
 駅の構内の人ごみを無視するかのようマサオは早足で歩きな
がら外に出た。駅前の華やかな風景に眼を奪われないように、
マサオはうつむきかげんに歩いた。人通りが少なくなるとマサ
オはほっとするのを覚えた。黒ぐろとして雲のキレ博士星の瞬
きが見えた。ひんやりとする風が吹いた。身が引き締まる思い
であった。濡れた歩道が街頭の光を反射してどこまでもきらき
ら光っていた。人気ない雨上がりの沈んで風景にマサオは親し
みを覚えた。なんとなく鼻歌でも出そうな気分であった。路地
はさらに静まりかえっていた。マサオの足音だけが響いた。
 アパートが見えてきた。大家の家の玄関の前に黒い人影が目
立った。マサオは胸騒ぎを覚えた。灯りが漏れる玄関の前でひ
そひそ話しをするもの、忙しげに、そして物々しく出入りする
者。玄関の奥は人影の割には静かであった。だが中からは重々
しい雰囲気が伝わってきた。源三が亡くなったのであった。
 ・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・
 マサオがこの町に住み始めてからたびたび葬儀の風景に出会
った。それは定期的といっても良いくらいであった。ある路地
か通りで物々しく葬儀が行われ、そして半年ぐらいたって今度
は別のところでという風に。葬儀はいつも突然で、しかも町の
賑やかな雰囲気とは孤立するようにひっそりと行われた。そし
て人々は厳粛な祭りに参加しているかのように緊張気味に振舞
っていた。そのたびごとにマサオは、喪服を身につけ物々しく
動きまわる人々を傍観者のように見ながら何の感傷もなく通り
過ぎるだけであった。だがそれから二三日もするとその場所は
何事もなかったかのように生者だけが通り過ぎる風景に戻って
いた。そして死はいつも二三日でマサオの頭から消えていった

 町では死はいつも他人事のように現われ、そして日々の生活
からは忘れられていた。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 マサオは源三の死に驚きはしたが正直悲しみは起こらなかっ
た。
   
   
   
 翌日の土曜日、葬儀のあわただしい気配を感じながら、マサ
オは部屋で過ごした。外に出ることがいつもほど億劫には感じ
なかったが、なんとなく独りで静かにしていたい気持ちであっ
た。開けた窓からよく晴れ渡った空がのぞいていた。ときおり
白い雲が穏かに流れていくのが見えた。ぼんやり眺めていると
自然と死者の面影が蘇ってきた。思い出の場面とともに、人の
良さそうな笑顔やしわがれ声が鮮明に浮かんできた。マサオは
タカから聞いた思い出林から、二人がどのように出会い結婚し
、そして、どうしてこの町に住み着いたかを思い返しながら、
若かったときの二人の姿やこの町に住み始めたときの生活を思
い浮かべた。
 夕方の冷たい風に窓ガラスが音を立てた。やがて気づかぬよ
うに日が暮れた。そして夜、重々しい雰囲気を感じながらマサ
オは気を使うように静かに階段を下りていった。源三がよく手
入れしていたことがある薄暗い庭に眼をやったあと、ゆっくり
と歩き始めた。路地はいつものように静まりかえっていた。マ
サオの気持ちは不思議と落ち着いていた。
   
 薄暗い路地を抜けると、耳慣れた喧騒とともに、眼の前に夜
の街の華やかな風景が広がった。空にはまだ薄明るさか残って
いたが、澄み渡った空気のもと、夜の色様ざまな光が冴え渡っ
た。身のひきしまるような冷気のなか、通り過ぎる人々の服装
には晩秋に気配が現れていた。
 マサオはこれといった目的もなく歩いていたが、いつのまに
か駅前に来てしまっていた。土曜日とあってか人通りも激しい
。そして夕暮れ時のあわただしさと重なって駅前はいちだんと
賑わっていた。マサオは賑やかな雰囲気に魅せられたようにベ
ンチに腰をかけた。そしてぼんやりと夜の街の風景に眼をやっ
た。
   
おびただしい数のネオンサイン、広告塔、ビルの光る窓、車の
ヘッドライト、水銀灯、そしてそれらの光が交じり合い、町を
まばゆく華やかに、そして幻惑的に彩る。
どこからともなく流れる音楽、車の走音、電車の音、人々の足
音や話し声が溶け合い、生き生きとした町の騒音を作っている

おびただしい人々が、どこからともなく現われ、駅に向かい、
あるいは駅からでて、どこへともなく消えていく。
タクシー乗り場の行列。
そして、待ち合わせをするもの、ぼんやり佇む者、足早に歩く
もの、秋の気配を体に表し多少気取り気味に歩くものたちが次
々とマサオの目の前を通り過ぎていく。
 マサオの眼は明るく引き締まった表情の若者たちの姿か入っ
てきた。とくに女性たちの姿が夜の光に映えて美しく華やいで
見えた。みんなはつらつとしていて満足げである。華やかな風
景に調和している。
《町は昔から何にも変っていないようだ。いつも人々で溢れ賑
わい活気に満ちている。町は生命そのもののように躍動的で、
いつも明るく華やかで充足している》とマサオは思った。そし
てこのまま永久に変らないような気がした。
 マサオは気持ちの高まりを覚えながら席を立った。以前どこ
へ行こうという目的はなかったが、群集にもまれて歩くことか
楽しいような気がした。いつものように人ごみに気後れは感じ
なかった。マサオは賑やかな雰囲気に浸りながら歩いた。通り
から通りへと闇雲に歩いた。花々で溢れた花屋が会った。こう
ばしい香りのするパン屋が在った。若者で賑わうレコード店が
あった。外から中の様子が見えるレストランがあった。アベッ
クが数多く通り過ぎる。輝くような笑顔の若い女性たちの群れ
が通り過ぎる。マサオは恍惚とした気分になった。快楽的な飲
み屋街を通りかかった。ドアの隙間から誘惑的な雰囲気が覗い
た。マサオは懐かしい欲望を覚えたが、そこへ足を向けるほど
ではなかった。ただ自分のそんな気持ちや周囲の雰囲気を楽し
んだ。マサオはただひたすら町の華やかさに酔いしれながら歩
いた。パチンコ屋のまえを通りかかった。久しぶりだなあと思
いながらドアを開けた。
 けたたましい金属音が耳に飛び込んできた。がなりたてるよ
うな音楽が流れ、店内は騒然としていた。タバコの煙が立ち込
め、空いてる席がないくらいに混雑していた。マサオは歩き菜
が席を探したがなかなか見つからない。ふと、キツネのような
顔がマサオの眼に入ってきた。そしてマサオは何気なく周囲を
見ると、猫のような顔や、サルのような顔が、そしてすすけた
顔や、皮膚のたるんだ顔や、吹き出物だらけの顔や、風船のよ
うにふくらんだ顔が、さらには野卑な表情をした顔や、凶暴な
表情をした顔や、傲慢な表情をした顔や、大人ながら子供のよ
うに表情をした顔が、店内の青白い光に照らされ次から次へと
不気味にマサオの眼に入ってきた。ゲームのとりこになってい
る人間はみな気持ちが悪くなるほど醜く、薄汚く、欲望を露骨
に表した表情であった。マサオは見てはならないものを見てし
まったと思った。息が詰まりそうになった。マサオは泥で汚れ
た吸殻が散らばっている床を眼にしながら外に出た。歩きなが
らマサオは《これはいったいどういうことなのだろう?、今ま
でなぜ気がつかなかったのだろうか?》と思った。 
 マサオはふたたび人ごみで賑わうとおりに出た。だが先ほど
のような素直な気持ちで賑やかな雰囲気に浸れそうにはなかっ
た。マサオは思った。
《彼らは特別な人間ではない、様ざまな職業の、様ざまな年代
の、ごく普通の、どこにでも見られる、自分と同じような人間
なのである。だが彼らのあの表情は明らかに醜い、薄汚い、気
味が悪い、生き生きとしていない》

 まちは相変わらず人通りが激しく、華やかに賑わい、活気に
満ちている。だがマサオは、彼らの表情を思い浮かべると、ど
うしても雰囲気に浸れなかった。マサオの気持ちは妙にさめ、
観察者のように冷静になっていた。マサオはもう一度彼らの表
情を思いかべた。すると彼らのあの表情は生活に疲れ、生活に
飽き飽きしている表情であり、そしてあくことなき欲望を追い
求める表情であり、満たされない欲望を表している表情のよう
な気がしてきた。そしてさらには人生を諦め、人生に退屈して
いる表情だとマサオは思った。
 マサオはさらに人ごみを歩き続けた。町は依然として華やか
に賑わっていた。
 マサオはふと思った。
《もしかして彼らのあの異様な表情は、この町に住む人間の本
来の姿であり、本来の表情ではないのか? そして、町の華や
かさは見せかけであり、まやかしではないのか? 人間は賑や
かさや華やかさにつられて、集まり、通り過ぎていくだけでは
ないのか?》するとマサオは暗鬱な気持ちになった。
 マサオはやや歩きづらさを感じながら人々とすれ違った。そ
のうちにマサオは、あれほど健康的ではつらつとしていた若者
の表情が内容も深みもない、衝動的で、自分の感情にほんろう
されても尚も飽くことのない欲望を追い求める子供っぽい表情
に見えてきた。そして大人たちもいつものようによそよそしい
、不機嫌な、あるいは無表情に近い表情をしているように見え
てきた。
 マサオは急に人ごみが煩わしくなってきた。マサオは歩きな
がら恐る恐るショーウィンドーにうつる自分の顔を覗いて見た
。みんなと同じ顔だ。いつか見たあの顔と同じだと思った。マ
サオは混乱した。不安になり、いっこくも早くこの雑踏から抜
け出したい気持ちになった。
そしてマサオは思った。
《きっと自分も、このまま薄汚く、醜い表情をして、欲望に翻
弄され、生きることに疲れ、秋、退屈し、年老いて、この世界
からぼろきれのように捨てられ、死んで行き、二三日して忘れ
去られてしまうのだ》自分の一生はそれだけなのかと思うと、
割り切れない気持ちになった。
 マサオは人ごみから逃れるように裏通りに入った。人影もな
く静かになった。マサオは冷静さを取り戻して行った。マサオ
は今まで源三の死を忘れていたことに気がついた。そして自分
が町の華やかさに浮かれていたことに気がつき情けなくなった
。自分に腹立たしさを覚えた。
 繁華街を遠く離れた通りを歩きながらマサオは弱まってきた
思考力で考えた。
《町は確かに変っていない。いつも人間が集まり、賑やかで、
華やかで、躍動的だ。だがそこに住む人々、通り過ぎる人々は
確実に変っている。老いている、疲れている。そして確実に死
が迫ってきている。だが人々はそれを忘れたように、欲望にほ
んろうされ、風景に幻惑され、行き、集まり楽しんでいる。自
分が源三の死を忘れていたように、町は死を考えさせない、町を
死を隠しているのだ、町は風景だけが変わらないのだ》
   
   
 人影の少ない帰り道を歩きながらマサオは急に疲労を感じた
。わずか数十分ほど町をぶらぶらしていただけなのに、会社帰
りのように頭はボォッとし体はこわばり手足が自分のものでな
いような感じであった。そして何かに怯えるようにおどおどと
した気持ちであった。だがマサオはいつもと違い、なぜかそん
な弱々しい自分に苛立ち、腹立たしさを覚えた。
 薄暗い通りから、遠くに町の風景が見えた。繁栄と豊かさを
象徴するかのように町は美しく華やかに、そして悠然と夜空に
輝いていた。マサオは理由も判らない憤りを覚えながらアパー
トに急いだ。
 大家の家にはまだ物々しい雰囲気が漂っていた。
 部屋に入ったマサオは、苛立つ気持ちを鎮めるかのようにだ
らしなく横たわった。まもなく町で見たことや考えたことが脅
迫的に頭に浮かんできた。
 マサオは感情の高まりを覚えながら思った。
《やはり自分はこのままに醜い表情をして、欲望に翻弄され、
生に飽き退屈し、そして疲れ、薄汚く年老いて死んでいくだけ
なのだろうか? この世界からぼろきれのように捨てられ、二
三日で忘れ去られてしまうだけなのだろうか? 今まで変り映
えのしない毎日に、生活とはこんなものなのかもしれないとう
すうす感じてはいたか、それでもいつかは何か素晴らしいこと
があるに違いない、何か変ったことがあるに違いない、そのう
ちにきっとよくなるに違いないと心の片隅で思っていた。だが
何もなかった。その兆しさえ見えない。毎日が会社とアパート
の往復で、帰ってみれば不快な疲労がいつも残っており、何も
できないほど思考力も想像力も衰弱しており、そして神経症患
者のように苛立ち、新聞を読んでも頭には何も残らなく、痴呆
のようにブラウン管を眺め、ただ食べるか飲むかで時間をすご
しては、だらしなく口をあけて眠るだけだった。そうしている
うちに、いつのまにか、若いときに持っていた美しい思いも、
みずみずしい感覚も、豊かな感情も忘れていき、空の果てしな
い広がりを忘れていたように、眼の前のことだけに捕われ、心
の広がりもなく、心の余裕もなく、硬直した頭を抱え、無感動
に振舞い、無表情に歩き、よそよそしい人間たちとすれ違い、
何かに怯えるようにおどおどとして、他人を恐れ、疑い、閉じ
こもって毎日を送っているだけではないのか? このままでは
やはり、醜い表情をして、欲望に翻弄され、生に退屈し、疲れ
、年老いて死んでいくだけではないのか? それにしても他の
人は、なぜ満足そうにしているのだろう? 何の疑問も持たな
いのだろうか? みんな自分とはそれほど変らないはずなのに
、同じように感じ、同じように考えて生きているはずなのに。
いや、もしかすると彼らだって、ほんとうは満足していなのか
もしれない。ただ彼らは自分のおかれている状況に気づいてい
ないだけなのかもしれない。自分がどんな醜悪な表情をしてい
るのか、自分がどれほど小さく弱く惨めな損沿いであるのか、
そして、どのように年老いて死んで、この世界から忘れ去られ
いしまうのかに気づいていないだけなのではないか? 彼らだ
ってきっと、不満や、苛立ちや焦りを感じることがあるに違い
ない。だが、彼らはおびただしい娯楽や遊びに、楽しみを見つ
け、気晴らしをして自分をごまかし、曖昧にし、次々と新しい
欲望発見し、つねに満たされることを願いながら追い求め、翻
弄されでも、町の華やかさや賑やかさに自分もその構成メンバ
ーのように感じながら、永久に変らない町の風景に、自分も永
久に変らないと思い込み、毎日、洪水のように押し寄せる豊か
さと繁栄のイメージで頭をいっぱいにして、自分では何をやっ
ているのか判らないが、周囲も人間もやっているからというば
くぜんとした理由で、豊かさと繁栄を自分ごとのように思い込
みながら安心して生きていられるのだろう。そしてありふれた
出世とか、社会的名声とか、女とか子供とか、よりよい生活と
かに夢や希望を持って生きているのだろう。彼らにとって死は
いつも他人事なのだ。いやこの町で現代を生きている者にとっ
て、操作せられているのだ。そうせざるを得ないのだ。だから
、自分がどのように生きているのか、そして最期はどのように
死んで、この世界に別れを告げなければならないのかに気がつ
かないのだ。しかしおのれ自身がどのように生き、死んで行く
のも知らないで、どうして出世とか女とか生活とかに希望をた
くせるのだろうか? 出世、社会的名声、それほど価値がある
ことなのだろうか? たかが人間同士の褒めあいごっこではな
いか! それほどすばらしいことなのだろうか? それならな
ぜ、こういう価値観を信じている同僚たちが、何気ない会話
のなかに、独り言のようなつぶやきのなかに、そして子供じみ
た不気味な笑いや不機嫌な表情のなかに、不満や焦りや迷いや
を見せながら、お互いに不信に陥り苦しめ合っているのだろう
? 出世とは、多少有能そうに振舞うことを心得ており、ずう
ずうしく、鈍感で、人より声が大きく、無恥で、目立ちたがり
屋で、しかも、意外と臆病な人間がなれるものなのだ。そして
周囲にいつも気を使い、屈辱に耐え、必要に異常に頭を下げる
ことなのだ。なんと愚かしい。どうして魅力的であろう。そん
な価値本気で信じられるのだろうか? オンナ、美しい女性を
得たいという欲望。美しいからといってどうだというのだろう
? 見せびらかしておしまいではないか! それに得るといっ
ても、その女一人を得るのではない。社会の仕組みやからくり
とともに、女の背後の煩わしい人間関係も、関わりたくない集
団や思惑もいやおうなしにいっしょに付いてくるのだ。そして
、気まぐれとか曖昧とか臆病とかで表現されるような女性的世
界を、さらには男性とは基本的に違う女性的欲望や考え方を引
き受けなければならないのだ。言葉をしゃべるだけの動物を、
四つの感嘆語にしか生きがいを見つけられない動物を得てどう
するというのだろう? 身が持たない。そして生活。この町で
どのように生きろというのだろう? うっとうしい日々を、う
だるような夏を、騒々しい雑踏を、退屈な午後を、狂気じみた
夕暮れを、寝苦しい夜をいっしょに過ごさなければならないの
だ。そして、憎みあい、ののしりあい、やがて老いて死んでい
く。コドモ。大人が醜く生き、退屈し、疲れているこの町で、
どのように育てようというのだろう? 大人が悩み苦しむ現代
でどのように生きろといえるのだろう? みんな呪われて生ま
れ呪われて生きるだけではないのだろうか? みんなごまかさ
れている、みんなバカされている。おのれ自身がどんなに醜い
症状をして生きているか、そしてどのように死んでいくのかも
判ってないことに気づいていない。町の華やかさも、繁栄や豊
かさのイメージも、みんな幻想なのだ。大いなる死の前では無
価値なのだ。おのれ自身がどのような死を迎えるのか知らない
で、生の意味などないはずだ。いや、もう他人のことなどどう
でもよい。大切なのは今のこの自分なのだ。他人がこの世界を
どのように思い描き、そしてどのように生き、何をやろうと、
また、未来に対してどんなイメージを持っていようと、それは
彼らの勝手である。知ったことではないのだ。どうも他人の生
き方や考え方が気になり、あれやこれやと干渉したがる癖があ
るようだ。とくに自分が行き詰まり迷っているときなどは、他
人がうらやましく見えるらしく、妬みもからんでか批判したく
なる。そして自信ありげな成功者とか、幸せそうな人とか、い
つも満足そうな楽天家を見ると、自分だけが割に合わない人生
を歩んだいるような気がして、この世界を暗く描いて不安にさ
せたがる。ひどいときには、それで名声まで得ているときなど
には、抹殺したいほど憎悪するときがある。悪い癖だ。人それ
ぞれ。出世も社会的名声もときにはその人の生きがいとなるも
のだ。女もときには楽しいものだ。子供も時には可愛いものだ
。周囲に惑わされるなと言いながら、これでは自分が他人の生
き方や考え方に惑わされているではないか! 社会がどうであ
れ、他人がどう生きようと何をやろうと関係ない。大事なのは
今自分自身がどうなっているかなのだ。だから今のこの自分の
状態を直視しなければならない。町はいつも人間で溢れ、陽気
で華やかで、とどまることを知らない繁栄で賑わっているらし
い。自分を取り囲む社会も成長しどんどん豊かになり、進歩し
ているらしい。だが自分はどうだろう? 豊かになっているだ
ろうか? 成長しているだろうか? 進歩しているだろうか?
 毎日会社とアパートの往復、不快な疲労が残り何にもできな
く、欲望に振りまわされ、思い出される思いでは子供のときの
思い出だけ、そして何がなんだか訳が判らぬまま空しく過ごし
ているではないか! 社会や他人のことをどう批判しようが、
これが今の自分の現実なのだ。紛れもない事実なのだ。自分は
昔とちっとも変っていない。少しも進歩していないし豊かにも
なっていない。いやかえって様ざまな物を失って衰退している
。町がどんなに繁栄し社会がどのように進歩し豊かになろうが
、本人が人間自身が変化し成長し豊かにならなければ、社会の
進歩なんかありえないのだ。他の人たちは、進歩や反映のイメ
ージを自分自身のことのように思い込み、この世界を華やかで
豊かに、永久に変らぬもののように受け入れ酔いしれているが
、自分は安易に夢を見ることはできない。そのことをはっきり
と拒絶しなければならない。社会は進歩するが人間は衰弱する
なんて愚かしいことだ。自分は華やかな風景に賑やかな雰囲気
に満足することはできない。剃れば幻想なのだ。まやかしなの
だ。自分事ではないのだ。それはおのれ自身にも化かされてい
ることなのだ。そのうちに醜く置いて死んでいくのは眼に見え
ているではないか。自分は決して、他人の思惑や、振りまかれ
る繁栄のイメージを信じない。他人がそれで化かされるのはか
まわないが、自分はイヤだ。そんな愚かしいことにはかかわり
たくない。結局は、欲望に翻弄され、憎みあい、妬みあい、自己
に閉じこもり、醜く年老いて、この世界からぼろきれのように
捨てられてしまうだけではないか! だが、今まで、ある特定
の考えが、生きる支えとして自分を助けてくれたことがあった
だろうか? 自分を迷いや苦境から救い出し、生きる意義や自
信を取り戻してくれたことがあっただろうか? 自分を取り囲
むこの世界をどんなに批判し罵ろうとも、決して変ることはな
い。人間はいつものように、どこからともなく集まり、群れを
なし、おのれの思うまま感じるままに行動している。そして町
はいつものよう人間で溢れ、ざわめき、賑わい、永久に変らな
い相貌を見せながら、眩く華やかにあり続ける。そんな現実を
どんなに呪い拒絶しようとも、びくともしない。とらえどころ
のない巨大な流れとなって、いつも悠然と眼の前に横たわって
いる。結局、どんな考えで一日に臨んでも、とらえどころのな
い大きな流れに巻き込まれながら、茫然と一日を過ごすのであ
る。そしてその結果は、いつも不快な疲労、苛立ち、閉じ込め
られたような気分となるのである。やはり自分は、このまま神
経をすり減らし、精神を消耗し、衰弱し、縮こまり、訳のわか
らないまま死んでいってしまうのだろうか? これでは町の浮
浪者と変りはない。いや、彼らのほうが幸福であったりして、
、、、自分は決して特別な生活を望んでいるわけではない。失
われかけた感覚や感情をもう一度呼び起こし、つまらないこと
に煩わされることがなく静かに気持ちでものを思ったり考えた
りしながら、よりよい心の平安の元に、充実した日々を過ごし
たいという、誰もが望むようなごく当たり前のことを臨んでい
るにすぎないのに、、、、決して贅沢な望みとは思えない。だ
が、このままではそんな望みもかなえられそうにもない。それ
よりもそんな望みを持っていては生きていけないようだ。やは
り自分はこのままみんなのように、薄汚い顔をして、欲望に翻
弄され、ぐちぐちと後悔し、何の目的もなく、惑わされ流され
ながら、生理体としての生命を維持するために、愚かしく煩わ
しいこの現実と関わり合って生きなければならないのだろうか
? その結果は眼に見えているというのに、、、、しかしもう
どんな思想も生きるための支えにはならないし、役にも立たな
い、やはりこのまま諦めなければならないのだろうか? どう
しようもない、、、、》
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・

 マサオはそう結論すると絶望的な気持ちになっていった。
 いつのまにか夜は更けていた。マサオは考えることほど無意
味なことはないと思いながら、ただ眠ることだけに心を傾けた

   
   
   
 病者のような退屈のうちに休日は過ぎ、そして月曜日。
 昼休み、マサオが一人でぼんやりしていると、斉木が近づき
マサオの傍に座った。何か話したそうに落ち着かない素振りで
あったが、マサオは気づかない振りをした。
「君はずっとここに居るつもり?」
と斉木が深刻そうな顔つきでマサオの顔をのぞきこむようにし
て話しかけた。マサオは無表情に黙っていた。さらに斉木は、
周囲に気遣うように声を抑えて話し続けた。
「こんなところに居てもしょうがないと思わない? 他にもっ
といい所があるっていうのに、、、、実は今、ほかの会社を探
しているんだよ。こんなこと一生やってられないからね、、」
 マサオは斉木を無視するかのように窓の外に眼を向けたが、
すぐに斉木のほうに向き直りながら言った。
「それでいい所が見つかったんですか?」
「うん、まあね。まだはっきりとは決めてないけどね。ここよ
りはいいことは確かなんだ。でも今、正直言ってどうしようか
と迷っているんだ。君はどう思う?」
マサオは無表情でふたたび窓の外に眼を向けた。
《煮え切らない男だ。そんなにいやならさっさと辞めれば良い
のに。そんなにいい所があるならさっさと行けば良いのに》と
マサオは思った。
 他の同僚が二人の傍に座った。斉木はそれまで深刻さを忘れ
たかのように急ににこやかな表情に戻ると、話題を変え楽しそ
うに話し始めた。
 マサオの目に穏かな町並が入ってきた。遠くに雲が流れてい
た。ふと昨夜思ったことが脳裏を掠めた。相変わらず斉木たち
の賑やかな話し声が響いていた。イヤならさっさと辞めればい
い、とマサオは心のなかで呟焼きながらふたたび町の風景に眼
を向けた。だが、ふと自分におかしみを覚え笑いがこみ上げそ
うになった。そして、なぜこんな簡単なことが今まで気がつか
なかったのだろうか、と思った。
《イヤなら辞めればいい。その通りだ。それはまさに自分のこ
となのだ。ほんとうに煮え切らないのは自分なのだ。このまま
行けど自分はどうなるのか? あれほど明確な答えが出ている
というのに、何を迷うことがあろうか。自分が意義も価値も認
めていないところに、どうして自分の生きがいを見付けること
が出来ようか? 何も無価値と認めた状態にとどまることはな
い。もうくよくよすることはない。あとは自分の考えや思想を
実行するだけだ。それがこれからの自分には役立つのだから、
、、、、》
   
   
   
 翌日、マサオは退職届を出した。
 後悔はなかった。むしろ今週限りですべての関係から開放さ
れると思う、せいせいした気分であった。
 同僚たちへは辞める当日まで、自分からは何も話さないでお
こうと決めた。それはぐずぐずして煮え切らない斉木へのあて
つけもあったが、同僚たちに辞める理由を聞かれたり、それに
いちいち答えたりすることが煩わしいと思ったからである。そ
れに《去るものはいまさら何を言うことがあろう、あとは別れ
てそれっきりの関係になるだけではないのか》と思ったからで
ある。だが、ほんとうのところは、一刻も早く、だれにも知ら
れることなく、ひっそりと姿を消したかったのである。それは
、理由がどうであれ、自分はこの会社を見限ったのであるから
、このままかつての同僚たちと顔をつき合わせているのがなん
となく悪い気がして、きっと居ずらいものになるに違いないと
思ったからである。
 マサオはいつもより気楽な気分で午後を迎えた。それでも終
わりごろになるといつものように、頭がボォッとし散漫な気分
になっていった。そのうちにマサオの頭には、退職届を出した
ときの上司の驚いた表情や、上司とのちぐはぐな会話が、脅迫
的にくり返しくり返し浮かんできた。だが、これで何もかも終
わりだと思いこむと、気分が落ち着いてきて、自然と笑みが浮
かぶのを感じた。マサオは心にゆとりを覚えながらぼんやりと
窓の外に眼を向けていると、ふと知子のことが頭に浮かんでき
た。他のものにはかまわないが、知子にだけは前もって話さな
ければいけないような気がした。
   
   
 夕方、マサオは知子の帰る姿を見ると、あとを追うように外
に出た。
 外気は冷たかった。マサオは急いだ。知子は会社の同僚の女
性と話しながら歩いている。マサオは知子が独りになるのを待
った。マサオはゆっくり歩いた。陽は沈み、西の空が焼けてい
た。
 交差点で知子はその女性と別れた。知子はひとりで歩き始め
た。マサオはふたたび急いだ。
 点滅する信号に眼をやりながらマサオは足早に横断歩道を渡
った。夕闇に知子の姿がだんだん近づいてきた。だが独りで歩
いている知子の姿を見ているとマサオは急に不安になってきた。
《言うべきだろうか?、それともこのままだまって居るべきだ
ろうか?》とマサオはなぜか迷い始めた。
 マサオの気配に気づいたのか、それでも知子はやや不安げな
表情で振り向いた。だがマサオであることを認めると、恥ずか
しそうに笑みを浮かべた。その笑顔を見たとたん、マサオは自
分が判らなくなった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 ・・・・・・・・・・・・・・・
 知子が声を弾ませ話し掛ける。
「さっきの人ね、、、、」
「、、、、」
「このまえ,だんなさんが酒ばっかり飲んでいて、働かないっ
て言ってた人、、、、」
「、、、、」
「今度、働くようになったんですって」
「、、、、それはよかったじゃない」
「、、、、ほんとね、よかったね、、、、」
少し興奮気味に言う知子の表情は自分のことのように嬉しそう
であった。
 車が頻繁に行きかうようになり、人影が多くなり、通りは夕
暮れ時のあわただしい風景に変っていた。
 マサオはだまっている知子が気になり、何気なく見た。いつ
もより化粧が濃いように思われた。夕闇にその顔が肉感てきに
映えた。マサオは知子を身近なものに感じた。
「最近残業が忙しいのかしら?」
「うーん、そうでもないけど、どうして?」
「、、、、ただ、なんとなく、、、、」
マサオは知子といる喜びを懐かしいもののように感じた。
 冷気が肌をついた。上空には薄明るさが残っていたが、通り
の風景はだいぶ暗くなってきていた。西の空が赤紫にかわっい
た。 
 マサオは自分の目的を忘れていることに気がついた。会社を
辞めすべての関係を断ち切ることは、どうじに知子とのこのよ
うな関係も切れることになるのだなと改めて気がついた。
「このあいだ、川があるって言ったでしょう、、、、」
「、、、、」
「川って言ったから、もっと広いかと思った。でも、あれも川
といえば川ね、、、、」
 知子の屈託なく弾んだ声が、マサオの耳に心地よく響いた。
《言うべきだろうか? 黙っているべきだろうか?》とマサオ
はふたたび迷った。だがいまさら何も言わないでおくのは悪い
気がした。
「私、もう洋裁学校には行かなくてもいいのよ」
と知子は満面笑みで言った。
「、、、、どうして?」
「だって、もうひととおり済んだから、、、、」
冷気をついて知子の香水が仄かに匂った。マサオはこのままず
っといっしょに居たい気持ちになった。
 駅に向かう人々が二人の前後を歩くようになった。騒々しく
行きかう車のヘッドライトが目立ち始め、通りはいっそう夕暮
れ時の賑わいを見せ始めた。
   
 歩きながらマサオは漠然と自分と知子の未来を思った。だが
、なぜか二人にとっての幸せそうなイメージは浮かんでこなか
った。それにマサオは、自分だけしか知子を幸せにできないと
いう気持ちにはどうしてもなれなかった。幸せとはそんなに特
別なことではなく、それは自分でなくともそれほど変らないよ
うな気がした。
《言うべきだろうか? それともこのまま黙っているべきだろ
うか? 言うならどのように切り出そうか?》
とマサオはふたたび煩悶した。
 踏み切りの警報機がなり始め、人々が群れをなし無表情で立
ち止まっていた。
「やっぱり、もたなかった、、、、」
「えっ、なにが?」
「カイシャ、、、、」 
「カイシャ?」
「今度、辞めることにした、、、、」
「辞める? いつ?」
驚愕の表情でマサオを見続ける知子に、マサオは思わず視線を
そらしてしまった。
「もう辞めた。今週いっぱいだけどね」
「ほんとうに?」
マサオは人々の群れに眼をやったまま頷いた。
「それで、どうするの? かえるの?」
そのとき電車が轟音とともに二人の眼の前を通り始めた。
   
   
≪つれてって!≫
   
   
≪よし、行こう! このままいっしょに行こう! 誰にも言わ
ずにこの町から脱出しよう。もう何もためらうことなんかない
んだ。もう何もかも捨てて、だれも知らない遠いところに行こ
う。君も僕も、もう他人の思惑や社会のからくりに振りまわさ
れることなく、人間として素直に生きられる日々をいっしょに
過ごそう。そこでは僕たちは生まれる前からいっしょに居るよ
うな感じなんだ。そして人間はお互いに苦しめあうこともなく
、君は特別に女であろうと振舞う必要はなく、僕も特別に男で
あろうと振舞わないだろう。そうだ、きっとこんなに一日にな
るんだ。朝、まばゆい太陽が、大地に、森に、部屋に差し込む
。それはなにが起きても怖くないように清冽な朝さ。そして青
い空、澄んだ空気、穏かな気配のなかで、君にとっても僕にと
っても満ち足りた午後を迎える。そして熱くまぶしい太陽、幻
惑的な午後がやってくる。僕たちは自分のことだけで精いっぱ
いだったりして。するとお互いに相手のことを忘れたりするん
だ。でもそれで良いんだ。やがて夕暮れが、子供のような悔恨
のなかで、お互いに懐かしく認め合うだろう。そして静かな夜
がやってくる。二人を取り囲むのは闇と静寂。僕たちの言葉や
仕草はすべて自然の暗号となるんだ。僕は君を通して、君は僕
を通して、宇宙と交わるんだ。僕たちの心は触手のように闇に
延び夜の深みに溶け込むだろう。さあ、いっしょに行こう! 
このまま誰にも告げずに、いますぐ行こう! ≫
電車が通り過ぎた。マサオは自分の思いに酔いしれていた。夢
のように甘美な気分であった。
 眼の前にふたたびごみごみとして風景が広がっていた。二人
は人々の動きに促されるように歩き出した。マサオにはまだ甘美
な余韻が残っていた。だがマサオの思いは言葉にはなりそうに
なかった。
「それで、どうするの? かえるの?」
「、、、、わからない、、、、」
「もう次の就職先は決めたの?」
「、、、、まだ決めていない、、、、」
 知子の声は落ち着いていた。それに比べてマサオは冷静さを
装いながらただ曖昧に答えるだけだった。
 なぜ自分の思いを口に出して言えないのだろうとマサオは思
った。だが自分にもその理由は判らなかった。
   
   
≪なぜなの?≫
≪判らない!≫
   
   
 二人は人ごみに流されるように歩いた。
「そうね、高橋さんには今の会社は似合わないわね。高橋さん
はもっと良い所に行ったほがいいわ、、、、」
「、、、、、、、、、、、、」
 マサオの頭に先ほどの思いがふたたび浮かんできた。言うな
らやはり今しかないような気がした。
だが、どうしても言葉になりそうになかった。
 通りの風景は夜の華やかさをたたえ始めていた。
 駅が見えてきた。それまでよそよそしいくらい冷静であった
知子に笑みがこぼれた。
「今週だけなんですか?」
「ええ」
 駅に近づいてきた。マサオはまだ他に機会があるような気が
した。なんとかなるような気がした。
 輝き始めた夜の光のなか、二人は駅前で別れた。そしてそれ
ぞれの人ごみに消えていった。
   
   
 翌日、会社に知子の姿は見えなかった。そして次の日も。マ
サオはそれとなく知子の同僚に訊ねた。風邪をひいて休んでい
るということであった。そして次の日も。結局最後までマサオ
は知子に会うことはできなかった。
   
   
 最後の日、部屋に帰ったマサオは、忌まわしいものを扱うよ
うに、手垢でやや黒光りのするネクタイをはずした。これで何
もかも終わりだ、あとは忘れるだけだと思いながら横たわった

   
 気づかぬように夜は更け、町を包み込んだ冷気が部屋まで忍
び込むようになった。もうこれからは明日のことを思うあまり
、重苦しい不安な夜を過ごすことなく、ゆっくりと眠れると思
いながら床についた。遠くを走る電車の音や、風のざわめきが
かすかに聞こえてきた。そんな静かな気配のなかで耳を傾けて
いると、急に言い知れぬ寂しさに襲われ、子供のような心細さ
を感じた。
 それは、自分は会社を辞めて煩わしさや苦痛からは開放され
たが、その代わり、この現実社会に素っ裸で放り出されたこと
をはっきりと自覚させられ、あたかも落伍者であるかのような
思いに捕われたからであった。これで人並みの生活は出来ない
だろうという気がした。
《人々からは敗北者のように見られるだろう。そして人々のさ
げすみの眼の前で、人々の勝ち誇ったかのような態度の前で、
屈辱を覚えるだろう。しかし自分で選んだ道だ。どんなに落ち
ぶれ、人々から相手にされなくやろうと、浮浪者のように嫌わ
れようと、しつこく生き抜いてやる。自分は決して敗北者でも
落伍者でもない。いいたい奴には何でも言わせておこう。笑い
たい奴には好きなように笑わせておこう。とにかくふてぶてし
く生き抜いてやる。勝者面する人間がいたら、皮肉めいた言葉
を吐いて薄笑いを浮かべていよう。度し難い楽天家がいたら、
この世界を暗い描いて脅かしてやろう。そして人知れず、下水
溝を這いつくばるドブネズミのように、ときどきは顔を出して
、このこけおどしのからくりを、見せかけだらけの風景を鋭い
歯を見せてあざ笑ってやろう。そして闇にまぎれてこそこそと
動きまわりながら人間どもの背後に無言で忍び寄り、その影だ
け見せて気味悪がらせたり、不吉な言葉をささやきかけ不安が
らせよう。あとは、ただ陰険に意地悪く生き抜いてやるしかな
い。

とマサオは襲いかかる孤独感に耐えるように思った。
   
   
 駅でマサオと別れた翌日の朝、知子は重苦しい気分のまま目
覚めた。起きて歩いたが軽いめまいを覚え少しふらついた。ど
ことなく体がだるく熱っぽかった。風邪をひいたのかしらと知
子は思った。このくらいなら会社に生けなく花なかったが゛、
なんとなく気分が滅入り行く気になれなかった。
   
 次の日も体がだるく思うようにならなかった。今まであんま
り休んだことはなかったのだから、たまには休むのもいいだろ
うと、知子は今週いっぱい休むことにした。父や妹たちがあわ
ただしく出かけて行ったあと、静まり返った気配のなか、独り
寝床でじっとしていると、なぜかこのまま会社を辞めたいよう
な気持ちになった。
   
   
 土曜日の午後。ときおり窓ガラスが風に音を立て、淡い秋の
陽射しが部屋に差し込んだ。知子は起き上がると窓に近寄り
、やや体のほてりを覚えながら窓の外に目をやった。柔らかい
日差しを受けた路地裏の風景が懐かしいもののように広がって
いた。
《なぜあのとき、あんなことを思ったのだろう?》
と知子は少し後悔するように思った。
やっぱり自分は住み慣れたこの町を離れて暮らせそうにないよ
うな気がした。
そして自分には、こんな風景のなかで、父や母たちのように生
きることが似合っているように思われた。
《良夫とだって、なにもまずいことはないのだから、そのうち
にきっとうまく行くに違いない》
と知子は自分に言い聞かせるように思った。
 知子はふたたび横になった。そして窓の外にぼんやりと眼を
やった。
《去られるものの寂しさをあの人は判っているのだろうか?》
と知子はゆっくりと眼を閉じながら思った。
   
   
   
 マサオは午後の町に出た。埃っぽい陽射しを受けながら町は
いつもの賑わいを見せていた。青い空を背景に雲が空高くあわ
ただしく流れていた。ふと源三や翔子のことが頭に浮かんでき
た。そして知子のことが。
《あれは夢なのだ。あんな生活が出来る場所なんてこの地上の
どこにもないのだ》
とマサオは寂しく思った。
   
   
 街路樹のイチョウの葉が見事なほど黄色く染まり、ときおり
風に散っていた。それを見てマサオはなぜか心安らぐのを覚え
た。
   
   
   

              おわり

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