その風が徐々に暖かくなっていき、木々や野草がいっせいに芽を吹き
名もない小さな花々がいっせいに咲き乱れる、という春がきて、、、、
* * * * * * * * * * * * * * * * *
第九悲歌
小礼手与志
* * * * * * * * * * * * * * * * *
いまこのとき、どこかの森の茂みのなかでは
ひそかに蝶が羽化しているにちがいない
また、どこかの高山の岩陰では
人知れず山羊の子が生まれているにちがいない
そして、わたしは、どこか遠い宇宙で
新しい星が誕生していることが気になる
何故なら、生命はひとつの星だから
東の山から太陽が上り、やがて西の山に沈んでいく
この何万年と変わることのない風景のなかで
季節の風にさらされながら
年と共に小さくなっていったあなたは
ついにその生涯を終えた
まるで、ひとつの星が老いて滅びていくように
数多くの無名の者たちと少しも変わることのない
その生涯を、山々に囲まれた自然豊かなこの場所からは
ほとんど出ることなく終えたあなたにとって
果たして世界は広かったのでしょうか
それとも狭かったのでしょうか
あなたと最後に別れた十七年前、わたしたちは
なぜか子供のようにあふれる涙を抑えることはできなかった
それはまるで永遠の別れを予感しているかのようでした
わたしにはなぜか、三歳頃までの、あなたとの特別な思い出は
まったくと言って良いほどありません
気がつくと、わたしの周りには家族が
いっぱい居ると言った感じでしたから
だから思い出としてあるのは、少し大きくなってからの
あなたが一生懸命働いている姿です
つまり、それは、わたしは、あなたがいつも見えるところで
何かをやっていたということです
あなたはとにかく、朝から晩まで忙しそうでした
それはまるで、遊んでばかりいる子供たちに
せっせと食べ物を運ぶ母キツネのようでした
だからあんまり、かまってもらえなかったような気もします
あなたにとって、子供たちの面倒を見るということと
牛や鶏にえさをやったり、稲や野菜の生育を見守ったりすることと
どれほどの違いがあったのですか?
そういえば、わたしが子供のとき、わたしは自分が貧しいとか
何か不足しているとか、一度も感じたことはありませんでした
いまから思えば、比較にならなかったぐらい貧しかったのですが
それから、わたしは、あなたから農作業を手伝えとは言われても
勉強しろとは一度も言われたことはありませんでした
というよりも、家の中にはいつも、勉強することは悪いことのような
雰囲気が漂っていました
だから、わたしは、あなたの目の届かぬところで
隠れるようにして一生懸命勉強しました
なにせあんまり農作業が好きでなかったもので
十五歳のとき、わたしは、あなたの元を離れることにしました
何故なら、そのときわたしは、あなたを取囲む田舎の風景に
なんの魅力も価値も感じられなかったからです
わたしは、あなたから人生について
気の聞いたことを一度も聞いたことはありませんでした
でも、十九歳のとき、この世界が精神の伝染病にかかっているとき
わたしは、あなたが働いている姿を思い浮かべただけで
その伝染病にかからずにすみました
それから大人になって
あるときすべてを失って破滅への焦燥感に
さいなまれたとき、あなたの働いている姿を思い浮かべると
自然と不安が解消され、気持ちが穏やかになっていき
ふたたび世界に立ち向かう勇気がわいてきたのを覚えています
その後もなんどか苦しいことがありましたが
そのたびにあなたの姿を思い浮かべると
苦しさから逃れることができました
それからわたしは、あなたにほとんど手紙も電話も差し上げませんでした
何故ならわたしは、いつになっても
あなたに報告すべきことがなかったからです
あなたが満ち足りた笑顔で喜びそうな
その報告が
それからわたしは、あなたのところにほとんど帰りませんでした
何故ならわたしは、いつになっても何者でもないわたしを
周囲の人々から見られるのがとても嫌だったからです
それからわたしは、あなたに尋ねたいことがたくさんありました
わたしが小さいとき、わたしはあなたにつれられて
あなたの母の実家に行きました
あのとき、あれはなぜ夕暮れだったのですか?
そしてなぜその家に泊まったのですが?
翌日、帰るとき、あなたから発せられた思いがけない言葉
私は生涯忘れることは出来ません
わたしが小学生になるまえ、
あなたが足の怪我を悪化させて長く入院したのは
あれはいつだったのですか?
あとで聞いたのですが、あのときあなたは
もう少しで死ぬところだったなんてちっとも知らなかった
それから、そのころわたしは、あなたに連れられて初めてみる家に行きました
あれはいったいだれの家だったのですか?
わたしが七歳のとき、あなたはわたしに話しました
あなたが小さいとき遠く遠くはなれた場所から、途中いろんな怖いことがあったが
なんとか一人で帰ってきたことを
そこいったいいどこで、あなたは何しに行ったのですか?
わたしが十二歳のとき
あまり農作業を手伝ったことのないわたしが、
一日がかりで手伝うことになりました
わたしたちは弁当を作りピクニック気分で
少し離れた畑に出かけ作業を始めました
するとまもなく雨が降ってきました
そこでわたしたちは作業を中止して
近くの物置小屋に入って、雨宿りをしました
そして、早めの昼食をとることにしました
あのときわたしは、あなたに気を使って
はじめて嘘をついたのをあなたは気づきましたか?
あんまりおいしく感じなかったのを
とてもおいしいと言ったのを
わたしが十五歳のとき、
つまらないことであなたを責めて
あなたが初めて涙を見せたとき
あなたは次の日の夕刻まで帰ってきませんでしたね
あのときわたしは
あなたとはもう永遠に会えなくなるのではと思い
とても不安でした
あれは、わたしのせいだったのでしょうか?
わたしが十六歳のとき
わたしがあなたの元を離れてひとり暮らしをはじめたとき
あなたはよく食べ物を送ってくれましたね
あなたはなぜ、お金ではなく
食べ物を送ってきたのですか?
それも良く痛みやすい食べ物を
それからいつだったか、あなたは
あなたの本当の父親の話を聞かれると話をそらしましたね
あなたはほんとうに何も知らなかったのですか?
それから、あなたは、義父を、妹を、弟を
そして娘をと、次々と失っても
決して壊れることがなかったのはなぜですか?
そのあいだに次々とわたしたちが生まれ
生きることに忙しかったからですか?
あなたにとって死ぬ事と生まれる事とは同じようなものだったからですか?
それとも、もしかしたら、牛も鶏もキュウリもナスもトマトも子供たちも
みんな同じくらいに気にかけなければならないものだったのですか?
それからあなたは、なぜ永遠の退屈を感じさせるようなところに
これといった贅沢もせず、これといった不満もいだかずに
一生住みつづける事ができたのですか?
たしかに、季節には変化がありましたが
春、だんだん暖かくなってくる風のなかで
すべての生命あるものは
活動を始めていました
すべてが生き生きとしていました
わたしたち子供たちは
空の鳥の群れに目をやったり
意味もなく声をあげて
家の周りを走り回ったりしながら一日中遊んでいました
ときには農作業に忙しいあなたの変わりに
蓬の若草や山菜を摘んできて
あなたにあげたりしてしました
しかし、あなたにとっては
一年の過酷な労働の始まりだったのではないでしょうか?
いったいどのような希望があなたにはあったのでしょうか?
夏、厳しい暑さのなかで
すべての生命あるものは
さらにその生命を育んでいました
すべてが解放的でした
わたしたち子供たちきは、裸同然の姿で
昼は近くの小川でフナやドジョウを取ったり
夜は蛍を追いかけたりしながら一日中遊んでいました
しかし、あなたにとっては、その過酷な労働が
さらに過酷さを増していったのではないでしょうか?
いったいどのような楽しみが、あなたにはあったのでしょうか?
秋、徐々に乾いていく風のなかで
すべての生命あるものは
その活動を終えようとしていました
すべてがどこかに帰ろうとしているかのようでした
わたしたち子供たちは、空いっぱいの赤とんぼに目をやったり
バッタを追いかけたりしながら一日中遊んでいました
ときには西の空が真っ赤になるまで遊んだ後
暗くなっても稲刈りに忙しくて
いっこう帰ってこないあなたたちを、何もしないで
いつ帰ってくるのかいつ帰ってくるのかと思いながら待っていました
しかし、あなたにとっとは
一年でもっとも過酷な労働だったのではなかったでしょうか?
いったいどんな喜びが、あなたにはあったのでしょうか?
冬、家の周りは雪におおわれ冷たい風が吹くなかで
すべての生命あるものはその活動を終えていました
すべてがひっそりと閉じこもっているようでした
わたしたち子供たちは、家にいても何もすることがないので
よく兄弟けんかをして、あなたを困らせていました
でも、あなたは決して絶望的な顔を見せませんでした
むしろ希望と喜びに満ちあふれ楽しそうでした
いったいどんな夢を、あなたは見ていたのですか?
やがて春がきて、ふたたび過酷な農作業が始まるというだけなのに
その風が徐々に暖かくなっていき、木々や野草がいっせいに芽を吹き
名もない小さな花々がいっせいに咲き乱れる、という春がきて、、、、