世紀末 海よりもやさしく

  もしかして自分は完全無欠なリーダーを目指していたのではないかと疑った。
 洋三はなんとなく振り返らずにはおれない気持になった。
 そして後ろ向きに歩きながら有美の家のほうを見た。 

  
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 世紀末 海よりもやさしく

 
                はだい悠  

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 この二十五年、時代は物質の大量生産と、その高速移動を主流とする経済の歴史的大発展期にあった。
 そして楽天的に膨張し続ける消費社会と共に、洋三の会社も著しい成長をとげた。
 
 洋三の人柄はおおまかに言って、真面目で温和で、そのうえ精力的で協調性があった。
 それゆえ上司の命令には常に従順で、会社の人事や経営方針には、格別不服そうな態度を示すということも、不満を漏らすということもなく、しかも精力的ではあるが独善的でないため、上司や部下からは慕われ信頼も厚く、さらには向上心も旺盛で能力にも恵まれていたので、成長期にあった会社にまとっては申し分のない性格をしていた。

 また、それは、自分の地位や周りの環境が、たとえどのようなものであれ、その中で生きがいを見出し力を発揮できるという事でもあった。
 だからそれは、少し皮肉めいた見方をすれば、大きく複雑な機械のような組織の中の一つの歯車に過ぎないということでもあった。
 だが、それはきわめて優秀な歯車である。

 その優秀さをたとえてみれば、たとえば、他のそれほど優秀でない社員、つまり他の歯車は精度が悪いために、かみ合いが悪く、がたがたと音がして力をうまく伝えられず、挙句の果ては周囲の歯車を傷つけたりして、仕事の効率を低下させるが、その様に、仕事に必要な情報を処理し、迅速かつ正確に伝えることが出来ずに、トラブル起こしては、周りに迷惑をかけて仕事の能率を低下させているという事なのだが、洋三歯車は、常に静かに滑らかに正確に力が伝えられるという精度の高いしろ物なので、仮にトラブルの前兆があったとしても、情報が正確かつ迅速に処理されるので、それほど大事に至るというようなこともなく、仕事は順調に効率よく進むという事であった。

 さらに洋三は、そのような自分の位置に疑問や批判的な考えを持つなどという事は思いもよらなかった。
 なぜなら、それは、自己の自由な生命活動の場として、自分には最もふさわしいところと思い込んでいたからである。つまり、時代は、個人の特異性や独創性が必要とされる変革期ではなく、協調性や忠実性がはるかに重要視される発展期にあったという事であり、洋三がたとえ偶然であったとしても、このような時期にめぐり合えたという事は幸福なことであった。
 別の言い方をすれば、誠実で従順で向上心にあふれた人間にとって、時代の発展期と会社の成長期と、自己の出世時期が一致したという事は、奇跡的に幸運なことであった。
 高井洋三、四十七歳は、十日前、入社以来二十五年間勤めてきた建設会社の代表取締役に就任した。
 それは前社長の急死からわずか一週間後のことだった。
 そのため早すぎる決定とも言えない事もなかったが、とりあえず群れのリーダーの不在という事から怒る不安や動揺を社内では抑えることが出来た。

 洋三にとっては、それは突然すぎるくらい突然のことであったが、それほど思いがけないことでもかなった。
 ただ、人がうらやむくらいの順調な出世であることは確かだった。
 

 洋三が年上の役員を差し置いて推薦されたのは、誠実な人柄や人望の厚さから来る社内での評判の良さが陰ながら後押しをしたという事だけではなく、入社以来たびたび表彰を受けるほど真面目に勤務し、会社の成長に著しく貢献したという事や、他に秀でた統率力や信頼感があるという事が衆目の一致することであったからであった。
 また、その決定にまあたっては、前社長には後を継ぐにふさわしい取り巻きや近親者もいなかったせいもあるが、洋三を貶めて出世を妨げるような悪い噂もたたず、遺族や他の重役たちから表立った反対の声があがらなかったのも、その理由だった。
 一般的には、成長以外の変化を好まず、世間体はを重んじる保守的な業界にあっては、たとえそれが競争相手であっても、ロうるさい同業者の評判、例えば、ちょっと若すぎるのではないか、経験がなさ過ぎるのではないか、無謀ではないか、もうあそこも焼きがまわったかなどと言う、揶揄や冷やかしが浴びせられるのを覚悟するものではあったが。

  以上のような条件と状況下においては、たとえ前社長の独裁的な経営体制の後遺症として、閉鎖的で権威的な体質が残っていたにもかかわらず、社会通念にそぐわないという風評を恐れすに、異例とも言える早さで決定されたのであった。

 洋三自身は入社以来、何よりも仕事第一に考えて、会社の発展に人並み以上に尽くしてきたという自負があり、またそれは決してうぬぼれではなく、自分以外に適任者はいないと思っていたことも事実であった。
 だが、候補に上がり決定するまでの間は、人並みに多少の動揺や不安におそわれたことも確かであった。
 しかし、いざ本決まりとなると、度胸が座ったというか、何の不安も迷いもなくなり、むしろ晴れ晴れとした気持で大任を引き受けることが出来た。

 それゆえ、よく世間に在るように、策略や裏工作で持って自分の野心や権勢欲を満足させたという後ろ暗さは微塵もなく、あくまでも自分の実力で、しかも、社内外から、期待され祝福されて就任したのであるから、何の迷いも不安も入り込む隙のないことは当然のことであり、心のそこから自信とやる気がわいてくるのであった。

 洋三が技術系出身であることが、決定に際してそれほど障害にならなかったのも、入社してからの二十五年はまさに時代は、経済の歴史的大発展期にあって、洋三自信が思いっきり仕事が出来たという事が、幸運に働いていたのかもしれない。
 このように時代や仕事に完璧に適応しているからと言って、誰でもが私生活においてうまく行くかというと、それはまた別の問題であるとういのも、えてして、有能で精力的な男は、行動が派手で社交好きで、女性関係においてスキャンダルを起こしがちであるという欠点を持っているからである。だが、洋三はそのような性向はまったくと言っていいほどなかった。
 むしろ平凡で、常識的で、見た目は地味と言っても良いくらいだあった。

 その地味さをたとえるとしたら、例えば、一流企業とおぼしき豪壮なビルディングから出てくる身なりのきちんとしたサラリーマンといえでも、一歩大都会の喧騒の中に踏み込めば、群集にまぎれてしまい、風景の一部となり、それほど目立たなくなって、ごくありふれた一市民になってしまうようになのである。

 特に洋三の場合のように、一流を目指して成長著しい会社の有能な社員と言えども、社内だけで通用するジョークや流行語やうわさ話に活気付いたり沈んだりする雰囲気に振りまわされ、また、独特や規則や、奇妙な習慣やしきたりに支配されている閉鎖的な集団の一員に過ぎないのであり、社会全体から見ても、あらゆる職業の人々と同様に、あくまでも社会を構成する一単位に過ぎないのである。

 目立たない平凡な一市民ながらも、洋三は平凡な社会人としての義務を果たし、家庭においても、健康的な趣味を持ち、適度に遊び、ありきたりに家族を思いやる、ごくありふれた父親であり夫であった。
 このような時、社長の椅子が転がり込んできたのであるから、心のそこからやる気がわいてくるのも当然のことであった。

 洋三の会社は社員数五百名あまりの、民間の建売と注文の住宅を専門に設計施工、そしてその販売を主事業とする建設会社である。業界では中堅に位置していた。もっとも施工と言っても、すべて下請け業者を使ってのことであるが。

 社長に就任すると洋三はさっそく、各部門から、その内容に軽重に関わらず、今現在の会社に関するすべての情報を集めた。
 最高指揮官として、とりあえず一刻も早く、うそ偽りのない会社の全体像を把握するためである。

 三日後すべての分析は終わった。
 その結果わかったことはここ数年業績は伸び悩んでいるということ。
 いや、より正確に言うとしたら、実質的には下降気味であるという事だった。
 近年業績が低迷気味であるということは、直接経営方針に参画でき、直接業績に関する情報を知りうる立場になくとも、つまり洋三は社長に就任する前までは、よりコストの低い方法はなにか、より効率の良い方法はなにか、などと、新しい建築方法に関する研究部門の最高責任者であったのであるが、そのことはうすうす感じていた。
 ただし、それは、自分の会社のことではなく、業界全体のことであり、現実の社会状況を的確に反映していることなのだから、仕方がないと思っていた。
 しかし、その一方では、もし自分が経営者なら、こうするだろうとか、こうすれば好転するだろうなどと、ひそかに思っていた。
 だが、それを実現する立場になかったので、やや空想的で、傍観者的なものになりがちで、しょせん消極性の域を越えるものではなかった。

  正確な情報を得て業績が下降気味であるという分析結果は、企業の命運を握る最高責任者としての自覚からか、洋三の考えを以前とは明らかに違う、次のような積極的なものに代えていった。
 社会構造が根本的に変化しつつあるので、それに合わせて従来とは質的に違う経営方針が必要であること。
 そのためにはもう少し多面的な情報と分析が必要であること。
 そして、それがこれからの自分の最も重要な仕事であるという、前向きのものであった。であるからして、昨今の業績の低迷が未来の暗雲にはならなかった。
 

 就任四日目。
 かつて同僚であったが、今は総務部で課長補佐をしている者から非公式な情報がもたらされた。
 それは下請け業者が手抜き工事をして大変な問題になっているという事だあった。
 しかし、はっきり言って、そのようなトラブルはこれまでに何度もあったことであり、そのつど表ざたにせず解決してきたのであった。
 だから今回のことも、なにも特別なことではなく、今までどおりに直接の担当者が適切に処理してくれるものと思っていた。
 そして、その元同僚が内密に知らせようとしたのを多少不思議に感じながらも、かといって真剣な顔して、大変な問題になっている、などと言うのも少し大げさではないかと思った。
 だが、一度はライバル視したことがある、かつての同僚からのせっかくの情報に敬意表する意味で、そのうちにその大変な問題の真偽を確かめることにした。
 今までのトラブルの原因のほとんどは、下請けの職人の力量不足や手抜き工事によるもので、会社の設計ミスによるトラブルはまったくと言っていいほどなかった。
 しかしそれでも施工販売の最終責任者として、トラブルの解消を目指して、施主であるお客に対応しなければならないのである。
 そのような時、お客の苦情処理に精通した者たちには、経験的に積み重ねられてきたある暗黙のマニュアルがあった。
 まず施主に対しては、年々人材不足から職人の質が悪くなっていくことを嘆いては、暗に職人にすべての責任があるかのようにほのめかしながら、終始低姿勢でのぞみ、その怒りの矛先をかわすというもので。
 また、下請けの業者に対しては、そのミスや手抜きをあからさまに責めるようなことはせずに、施主からの注文が多いわりに予算および工期の少なさや、その施主の細かい事にこだわりすぎる神経質な性格を引き合いに出しては、あたかもそれが不当な要求であるかのように思わせながらも、その一方では、仕事を与えているという元請の有利な立場を徹底的に利用して、ときおり高圧的な態度で持って無言の圧力を加えては、遠まわしながらも最終的にはそのミスを認めさせ、その責任をとらせるというものである。
 これでもって今日までほとんどのトラブルを無難に処理してきたのである。

 次の日、今度は、人事部の人間から、昨日と同様の情報が、やはり非公式にもたらされた。
 洋三は直ちに営業の最高責任者を呼び寄せ、実際はどうなっているのか、事の真相を問いただした。
 その返事は意外とハッキリしたもので、ニ三日じゅうに、今まで通りに解決すると言うものであった。

 まったく疑う余地のないほどの明確な返答に、洋三は安心したのか、次のような決まり文句で締めくくった。

「施主と言うものは、とかく神経質で、家が壊れると言うわけでもないのに、ちょっとしたことでもやり直しをさせたがるし、まったくわがままな人たちだよ。下請け業者だって、とにかく儲けるためには平気で手抜きをするしね。まあ、辛抱強く行かないとね。」

 集団が危機に陥りそうになったとき、その外部のものを必要以上に悪者扱いして、内部の結束を固め組織の自己防衛を計ろうとすることは、本能的な行為として、やむを得ない事とはいえ、洋三にとってはあまり気持の良いものではなかった。
 というのも、洋三はかつてそのような手段を利用したことはなかったし、たとえ、外部の者であろうと内部の者であろうと、よい関係を長く保つのは基本的に信頼であるということを、信念のように思っていたからである。
 でも、なぜか洋三は、かつての上司であった営業部長への遠慮があったとはいえ、そう言わざるを得なかった。

  就任七日目の朝。ひとつの情報が伝染病のように社内をかけめぐった。
 会社が、建売住宅の買主たちから、その手抜き工事が原因で集団で訴えられたというものであった。

 洋三には大惨事の知らせのようにもたらされた。
 つまり、報告された内容よりも、その報告者の慌てふためきぶりから、その事の重大さが推し量ることが出来るという風に。

 最初、洋三は、なにが起こったのかすぐには把握できなかったが、詳しく報告を受けいてるうちにことは真相がハッキリしてきた。
 それは一年以上も前から、ある特定の地域の買主たちから、次々と苦情が出ていたのであるが思うように買主と下請け業者の調整がつかず、最近では、その解決が長引くあまりに、会社に対してあからさまに不信の念をあらわすものが現れ始め、まれには、感情的暴力的な言動で不満を表すものがいたということであった。
 しかし、それでも何故かいっこうに解決の方向にはむかわず、その結果として、買主たちを欠陥住宅の被害者として結束させ、このたびの集団訴訟となったものらしかった。
 そして、その過程でわかったことは、社長である洋三自信には今の今までなんら詳しい内容はまったくと言って良いほど知らされていなかったということ。
 それに訴えられた内容からして明らかにこちら側が不利であるということであった。

 訴えられた直接的な原因は、下請け業者の意図的な手抜き工事や職人の技量不足から来る欠陥工事にあることは明白であったが、この問題は、どうもそれだけに原因があるようには、洋三には思えなかった。
 そこで再び営業の最高責任者を呼び寄せ、昨日の報告と違う結果になったことに対する釈明を求めた。
 それによれば、お客の苦情に対する応対は従来どおりで、決してないがしろにした訳ではなく、ましてや多少こじれたとしても訴えられることはないだろう等とたかを括っていた訳でもなく、常に誠意をもって接していたので、そのうちに何事もなかったかのように解決するだろうと思っていたということ。
 それに下請け業者に対しても、決して元請の立場をかさに来て高圧的な態度で持って一方的にその責任を取らせようとしたことはなく、あくまでも対等な関係の上にたっての穏やかな話し合いで処理しようとしたこと。
 ただ、多少の行き違いがあって従来のようには順調に進まなかったということ。
 そして、このような結果になったことは、今まで全力を尽くして解決しようとしてきた自分たちの努力が無駄になったような気がして、非常に残念であり、自分にとっては不本意であるということであった。 

  洋三は独りになり、沈黙した。いまさらどうあがいても、誰をせめてもしょうがないと思いながらも、
なぜ、もっと早くに処理できなかったのか?
なぜ、こんなになるまでほっといたのか?
なぜ、もっと早く正確な情報を知らせなかったのか?
なぜ、よりによってこんな時期に自分が社長に就任したのか?
と、悔やみ、恨み、責めた。
 洋三はただちに緊急役員会を開いた。
 しかし、結果ははかばかしくなかった。
 沈んだ雰囲気のなかで、この難局を打開するために自分から進んで発言しようとする役員はいなかった。
 また、それまで経験豊かで頼りがいがあり、今後より良き相談相手になってくれるだろうとひそかに期待していた、だいぶ年長の取締役からもこの難問の早急な解決にあたっての有効な意見どころか、示唆に富んだアドバイス的な意見さえ出なかった。
 それは自分に対する遠慮なのか、信頼なのか、敬意の表明なのか、それとも、新米社長である自分に対する嫌がらせなのか、意地悪なのか、それとも、ここはひとまず突き放して試練を与え、お手並み拝見ということなのか、それとも、彼ら自身がまったくの無能なのか、洋三には判らなかった。

  どちらかと言えば洋三は、ほかの役員たちと自由闊達に意見交換し、自分たちの力で方針を決定したり、問題を解決したりしたいと思っていた。
 いつまでたってものびのびと自分の意見を言わない役員に対して洋三は、これは前社長のやや独裁的な運営の後遺症に違いないと思わざるを得なかった。
 それならば自分は暴君のように振舞えばいいのかと乱暴に思った。

 結局それとなく決まったことは、このような問題の解決にあたっては、素人が下手に手を出さないで全面的に弁護士に任せたほうが良いということであった。
 洋三にとってはどうにも納得がいかない結論だったが。
 しかし、そうは言っても、洋三自身が、彼らに代わって明確な解決策を打ち出せたわけではなかった。
 そして今まで、リーダーとしてふさわしい言動はなにかなどと、前もって考えて、勉強していたことが、なんの役にも立たないことが判った。
 実際は、居並ぶ役員たちを目の前にして、現実的かつ具体的に、どのように発言し、どのように行動してよいかまったく判らなかったのであるが。しかし、かといって、うろたえたり、苛立ったりして自分の無力さをさらけ出したくはなかった。

 洋三は思い知らされた。
 自分の会社は堅実で、社会的信用があり、しかも優秀な社員を多数抱えた優良企業であるから、たとえどんな困難に遭遇しようと、みんなで協力して知恵を出し合っていけば、絶対に切り抜けて行けると、今の今まで思っていたのであったが、実際はそうではなかった、それは幻想に過ぎなかったことが。
 たしかに、会社は時代の追い風に乗って順調すぎる位に成長してきた。
 しかしそのことは、裏を返せば、乗組員である社員は、逆風や暴風雨などの試練に会わなかったということであり、また、時代の追い風と言っても、その正体は、エネルギーと商品の大量消費のなかでその膨大な物質の流れや移動にあわせるかのように、人間もいっしょになって、その正当な生命活動の赴くままに、ただ、ひたすら盲目的に突き進んできただけだ、とも言えるのである。

 だからそれは、ちょっと皮肉な見方をすれば、なにも考えることなく、ただ、時代の惰性に押し流されてきただけだ、とも言えるのであり、そして、いつのまにか、大いなるマンネリズムに陥り、馴れ合いがはびこり、緊張感に欠けた、しかも、変化に適応できない体質になっていたとも言えるのであった。 

 洋三は敗北感を味わいながら再び独りになった。
 明日新聞に乗るだろう。
 奴らはいいたい放題のことを書くだろう。
 あとをたたぬ悪徳建設会社、ワンマン経営の付け、欠陥住宅の作為的販売、暴かれた手抜き工事の実態、危ぶまれた新体制の人事、早くも新体制の崩壊か、などという言葉が次々と頭の中をかけめぐった。

 実は洋三は表面にこそ出さなかったが、内心は非常に新体制に対する世間の評判を気にしていた。ただし、それは、自分の責務に対してあまりにも熱心であるためであった。
 だから、たとえそれが冗談や冷やかしであっても気になった。
 ましてやそれが明らかな批判となると、実際心臓が止まる思いであった。
 就任したとき洋三は、自信とやる気以外は何もなかった。
 そして一日も早く低空飛行を脱するために、上昇気流に乗せようとひそかに目論んでいた。それを自分の力で、自分のヴィジョンで゛、自分のリーダーシップで、である。
 しかし、現実には、足元にあった石につまづき転んでしまった。
 起き上がってみると風景は一変していた。
 不信と怒りの冷ややかな視線がいっせいに差し向けられていた。
 それは耐えられないことであった。

 少なくとも洋三もまた、普通の人々と同様に、仕事を通して社会に役立ちたいと考えている人間であった。
 そのためどちらかというと、会社の利益や発展よりも、お客のためにより安価で住みやすい住宅は何かということを真剣に考えて、今まで仕事にあたってきたといえるのである。
 ところが、それにもかかわらず、ある日突然、反社会的人間であるかのようにみなされ、拒絶され、攻撃されるということは、常日頃から身内のように大切に思い親切にしてきた者から裏切られたような気分であった。
 しかもそこには、自己の存在が、暴力的に、不当に脅かされたときのような恐怖心に近いものがあったために、それはまるで飼い犬にかまれたと言うような屈折した感情に変わっていった。

  家族のため、社員のため、人々のためと、そればかりを思って働いてきた自分がなぜこんな目にあわなければならないのか、世の中には他にもっと悪い奴がいるはずだと、洋三は疑心暗鬼になった。 べつに絶大な賛同を得て社長になったわけではないんだと、頭の中でつぶやいた。
 それにしても、よりによってなぜ自分のときにこんなことになるんだと悔しがった。
 そしてそれは、スピード違反で捕まったときのように、なぜ俺だけがという様な憤懣に変わっていった。

 このさい開き直って徹底的に戦おうか、それともひたすら頭を下げて和解するかと、強気と弱気が交錯した。
 会社の業績の不振の原因は、主に社会の経済状況の変化にあることは、おおむね間違いのないことであるが、しかし、今回会社が訴えられたことの原因は、ただ単にお客への配慮が足りなかったとか、下請けを締め上げすぎたとかにあるのでもなく、社会の何かが、従来と変わったことにあることは確かな様である。
 ただ、その何かが何なのか、混乱した洋三の頭には判らなかった。

  その晩、洋三は独りで歩いて会社を出た。不安で孤独だった。
 そして、しばらく雑踏にまぎれて歩いたあと、久しぶりに電車に乗った。
 三十分ほどして降りたところは、兄清二の住む町だった。
 洋三の兄清二は、ある都市銀行の支店長を経て、今は次期頭取を狙う五本の指にまで数えられるようになっていた。

 兄の家の玄関の前に立ったとき、洋三は自分が社長に選ばれるにあたっては、実の兄が都市銀行の中枢にいるということが、もしかしたら大きく影響したのではないかという思いが、ふと頭を掠め、思わず皮肉な笑みがこぼれた。

 二年ほど前から、清二の家は一人娘の有美の言動に振りまわされていた。
 それは女子大に通う二十二歳の女性が、突然素行が悪くなり、乱暴な言葉づかいで、親を困らせる様になったということではない。
 かつて清二の妻静子が、娘の有美についてロぐせの様に話していたことがあった。
 それは、よくある母親の話しのように、過度の甘えやわがままで、自分を困らせたと言うようなものではなく、素直で聞き分けがよく、わりと小さい頃から言うことをよく聞いて、自分のことはしっかりやれる、あまり手のかからない育てやすい子供であったと言うものであった。

 そのように、その後の成長にあとを見ていても、例えば、進学のときとか、日常の生活態度とか、趣味とか、服装や化粧とかについても、両親から反感を買うとか、意見の違いを見るようなことはなく、性格的にはずっと変わることなく、やさしく思いやりがあり穏やかで、いたずらに親を心配させるようなことはなかったようである。
 外見的にも、かつての丸い目が独特の愛くるしさを振りまいていた少女期の可愛らしさから完全に脱していて、今は、それほど活発な印象を与えないので、すれ違う人を振り向かせるとまでは行かないが、その育ちのよさと若さから来る上品さとみずみずしさで、抑制された美しさを備えるまでになっていた。

 では、洋三に会うたびに苛立ちを隠さず娘への不満を募らせていく清二の家の不協和音の原因はどこにあるのかといえば、それは親が娘の将来のことを思い、裏で色々と手をまわすのであるが、何故か有美の不可解な言動によって、ことごとく期待に反する結果に終わっていまうことにあるようであった。
 つまり一つ屋根の下に住む父と娘が、お互いを避けロも聞かないという状態にあるようであった。 というのも、不満を漏らす清二のロ調には、思うようにならないので苛立っているというよりも、 直接に娘へ思うようにいえないことで苛立っているようにも見えるからである。
 理知的でしかも家庭的な妻と、日々の生活のなかでも、進学や就職にあたっても特別に親を悩ませたことのない子供たちに囲まれ、今までこれと言った家庭のトラブルを経験したことのない洋三にとって、兄がどんなに深刻そうな表情で話そうと、それはよく世間にある一人娘を可愛がるあまりに起こる、干渉のしすぎというもので、もう自分の将来は自分で決められる、というよりは決めなければならない大人の女性なのだから、そのうちに自然に解決するだろうと、いつも楽観的に考えては、あくまでも自分とは関係のない他人の家族のことのように、洋三は冷静に見ていた。

  清二が弟の前で最初に娘有美への不満をもらしたのは、昨年の初夏、洋三がなにかの用事でふと立ち寄ったときのことであった。
 洋三と清二と静子の三人が居間で世間話をしているとき、清二が今までの話題を突然さえぎるように話し始めた。

「親が子供の心配をするのは当然なんだよ。
ぞこの家だってそうだよ。
なにしろ一生の問題だからね。
自分の娘が幸せになるか不幸になるかっていう大事なときなんだよ。
なあ、最初はなんだっけ、朝寝坊?遅刻?
ああ、道を間違えたのか、そうだよね。」

と清二は、清二が話題を変えると同時に席を立った静子の背に話しかけるように言った。
 そして洋三のほうを向き直ると、もう話したくて話したくてしょうがない、ぜひ洋三に味方になって聴いてもらいたいといった落ち着きのない表情で再び話し始めた。

「次は途中で頭痛、三回目は腹痛、四回目は?
今度はいったいなんだよ。
どうにも本当だと思えんのだよ。
いやね、有美のことなんだよ。
今年就職だよね。
それで何とかしようということで、わたしがちょっと話しをすればそれで十分なんだけど、でもいちおう形だけは整えないとね。
人事の人にだって立場というものがあるからね。
きちんと書類を調え、面接にも行かなきゃということでね。
最初は取引先の商社だろう。
次は、あの例の銀行、次は、、、、次も銀行か、そうだね、お母さん。
それなのに、それなのにだよ、道を間違えたとか言って、面接に行かなかったんだよ。
地方から出てきた田舎娘じゃないんだから、二十年以上も住んでいるんだよ。
でもね、それが本当だとしても、少しぐらいの遅刻はかまわんじゃないか。」

「遅刻はとても恥ずかしいって、有美は人一倍遅刻はよくないことだって思っているのよ。
そんな娘ですから、このまま行っても自分は無理だろうなって思うのも当然じゃないの。
それからねさっき途中で頭痛って言ってましたけど、頭痛は家にいたときからなの、それで私と相談して行くのを止めたんです。」

と居間に戻ってきた静子がおだやかに、しかし、きっぱりと言った。そして二人の話し合いには加わりたくないかのように二人から少しはなれた席に座った。それは話しには興味がないというようではなく、出来れば早く話題を変えてほしいようであった。そして、それはまた、自分の部屋に引きこもっている有美に、父と母が言い争うのを見られるのも聞かれるのも恐れているかの様であった。

 清二は少し興奮して話し始めた。

「頭痛ぐらい自分の将来が掛かっていると思えば、我慢できないこともないのに。
そんなにひどかったんなに、お母さんもいっしょに行けばよかったじゃないか。
今は女子大を出たからって、良いところに就職するのは大変なんだよ。
せっかくのチャンスを棒に振るようなことをして、どんなに話しをつけたって、面接だけには行かなきゃどうしようもないんだよ。
もう自分だけのことじゃないって、有美にはちゃんと話してたんだろう。
最初と違って、どうだったの、本当は話してなかったんだろう、二回目、三回目は。」

 読むのでもなくなんとなく本のページをめくっている静子が、清二の方を見るのでもなくそのままの姿勢で言った。

「いいえ、ちゃんと話しております。
私だってその様なことは考えました。
でも、娘の面接に母親が付いて行ったりしたら返ってあなたに迷惑が掛かるってことも考えられますよ。あなたの恥になるってことだって、考えられないこともないんですよ。
でも、有美は、本当に大変そうだったのよ。
もう、いまさら終わってしまったこと、あうだこうだと言ってもしようがないじゃありませんか。」

 「そうですかね、少しぐらいは我慢してもらわないと。
たとえ、なにがあろうと、面接だけには行ってもらわないとね。いくら私が段取りをつけても、どうにもならないよ。次はなんだっけ、腹痛だそうだね。お母さん。途中で気分が悪くなって、近くの公園で休んでいた。どうもわからん。不思議だよ。そのあと病院に行ったって話し聞いたことがない。原因はなんだったの?不思議だね。偶然とは思えない。そんなに胃腸が弱い子だったっけ。お母さんは本当のこと何か隠しているんじゃないの。」

「隠してなんかいませんよ。わたしは有美の言うことを信じるしかありませんから。」

「こうだよ。二人でぐるになって私をいじめているみたいだよ。すべては私が話しをつけるんだからね。相手に悪いじゃないか。ばつが悪いったらありゃあしない。まあ、この位の事は大した事ではないんだけどね。もしかしたら有美は就職するのが嫌なのかね。働くのが嫌なのかね。でも、いくらなんでもそうはいかないだろう。もしそうだったら、これは完全にお母さんの甘やかしすぎだね。」

「なにを言うんですか、有美はそんな子じゃありませんよ。」

 それを聞いて清二は少し安心したような表情で話し始めた。

「うん、親が子供の就職の面倒を見てなにが悪い。
いったい何が不服なんだろう。
有美がその気になりさえすればどんな一流会社にだって入れるというのに。
なにが不満なんだよ。
ねえ、お母さん、お母さんは本当のこと何か知っているんじゃないの、私に何か隠しているんじゃないの。」

「もういい加減にしてくださいよ。わたしは何も隠してません、何も知りません。そんなに言うなら、お父さん、あなたが直接、有美に聞いてみたらいかがですか。」

 清二のほうに顔を向けながら穏やかな表情でそう言う静子の言葉を最後に、有美についての話しはそれで終わった。

 二人が言い争うあいだ、洋三はその話の具体的内容には、これといって興味がわかず、自室にこもっているという有美の幼いころから少女期にかけての、数少ない断片的な記憶を、例えば、美しく着飾り両親に手を引かれて歩いている姿や、自宅でピアノの個人指導を受けている姿、それに絵画教室から帰って来て玄関ですれ違ったときに軽く会釈をした姿などを思い浮かべながら聞いていた。

 その後、秋になっても、有美の就職先が決まったという話しは、ついぞ洋三に耳には届かなかった。

 そして十二月も末、洋三一家は、清二の主催するパーティに招待された。
 だが、その名目と主旨はパーティが終わるまで洋三は知ることが出来なかった。
 それは忘年会の様でもあり、クリスマスパーティの様でもあり、誰かの誕生祝いの様でもあったが、清二の親戚、友人、部下、取引先の社長夫婦と、その招かれた者たちから推し量るに、清二を囲んで親睦を深めるための私的パーティの様であった。
 ホテルの広間を貸しきり、総勢三十名ほどで、ただ、その中には他の参加者と比べて、ひときわその若さが目立つ三十前後の男性が三人混じっていた。

 パーティ終了後に判ったことであったが、たしかに表向きは清二を囲んでの親睦会のようであった、だが実際は、娘の有美の見合いということだった。
 その相手は、若い三人の男たちで、彼らは清二の銀行のエリートで、清二が将来確実に銀行の大幹部になることは間違いないと、特別に目をつけた三人であった。
 なかなか就職が決まらず、また、本気で就職をしようとしているのかもハッキリしない娘に業を煮やした清二は、もうこうなったら結婚させてしまえ短気を起こし、妻の反対も聞かずに、強引に隠された見合いパーティという今回の計画を実行したのであった。
 そしてその相手には、将来に渡って何かと都合のいい自分の銀行のエリート行員を選んだのであった。
 三人の青年たちも、次期頭取の有力候補の一人と目される清二の娘と結婚できるかもしれないというのであれば、パーティに出席しない理由はなかった。
 ただし有美にはパーティの本当の主旨は知らされていなかった。
 これで洋三がパーティの間じゅう抱いていた疑問、なぜ有美の席が、年頃も同じ、しかもいとこ同士である洋三の子供たちの近くではなく、三人の青年の近くなのかという疑問が解けた。
 だが結果は思わしくなかった。
 というより清二の目論見は完璧に打ち砕かれてしまった。
 なぜなら、パーティが終始、清二の頭取就任の前祝のような華やかな盛り上がりを見せているなかで、真の主役であった有美が、ほんの二三分であったが、こともあろうに皆の見ている前でだらしなくロを開けて眠ってしまったのであった。
 洋三たちも人々の薄笑いやざわつきの中でその姿を目撃した。
 いびきやよだれに関してはハッキリと認めなかったが、周囲のひそひそ話しには流れていた。 

 隠しようもなく恥ずかしい姿をさらけ出し、衆人環視の下で変な娘であると印象づけたのであるから、清二には、本当の目論見を実行する勇気はもうなくなっていた。
 だが、そのパーティは、最初から相当波乱含みであったことが洋三は、自宅に返ってから妻から聞いて判った。

 有美が会場に到着したのは、開会十分ぐらい前で、髪はぼさぼさで男の子の様なその姿は、道に寝転んだかの様に汚く、化粧っ気はまったくなく、かすかに生臭い匂いを発していたというのである。 ただパーティ用の服はあらかじめ静子が用意していたらしく、そこで洋三の妻も手伝い、急いで着替え化粧し、時間に間に合わせたというのであった。
 そして今年の三月の初め、洋三はある会合で清二に会った。
洋三は、その後の有美について聞きたかったこともあり、また、清二も話したかろうということで、それとなく水を向けた。
 しかし、娘のことはもうどうでも良いという感じで、ほとんど何も話さなかった。
 というよりも、他の、何かに、終始苛立っている様で、かつて二人でもあまり話したことがない、若者の風俗批判に始まり、社会批判、政治批判を半ば支離滅裂に、半ば攻撃的に話し続けるだけだった。
 その様子は自暴自棄の様にも見えた。
 それが洋三に頭の中に残っている清二の最も新しい記憶だった。
 ということは、それ以来今日まで、洋三は清二に会っていないことになる。
 だから、その後、有美がどうなったかもまったく判らなかった。
 この一年半前に始まった不協和音のせいで、自分が兄の家を避けているということに、洋三は気づいていたので、なんとなく気が重かったが、静子が以前と少しも変わることなく出迎えてくれたのでほっとした気分であった。
 それに、一年半前の有美の醜態や、七ヶ月前に会ったときの兄の自暴自棄な態度からして、娘と父の関係が確実に最悪な状態になっているに違いないと思っていたので、この比較的疎遠であった七ヶ月の間に、さらに何かもっと重大な変化が起こっているのではないかと不安であったのだったが。
 家の中に入っても、以前と変わった様子はまったくなかった。
 ただ、通された居間は夕暮れ時のあわただしさからは完全に遮断され、寂しいくらい静かであった。
 洋三は出されたビールを遠慮なく飲むと、さっそく兄清二の所在をたずねた。

「いま、釣りに行ってるんですよ。」
「えっ、釣りって、海とか川とかの、これ、そんな趣味あったっけ。それで接待とか何とかで、、、、」

「いいえ、遊びというか、道楽というか。」

「それじゃ、仕事、銀行はどうしたんですか?」

「銀行ね。そうね。
もう隠していたってしょうがないのにねえ。絶対に言っちゃだめだって言われているんだけどね。
いずれは判ることですから。
銀行は退職したんですよ。」

「退職って、本当、いつ?」

「そうね、五月頃だったかしら。」

「まさに寝耳に水だね。どうして?」

「今年の一月、新聞見ました、あのスキャンダル。」

「見ました。でも兄貴の名前はなかったですよ。」

「そうなんですけど。でもなんか具合が悪かったみたいなんですよ。」

「本当は関わっていたんですか?」

「はっきりとは言わないけど、、、、」

「そうか、辞めたのか。もう、もう銀行とは縁が切れたわけですか、そうか、、、、」
 洋三は、不安を抱えながらも今まさに初飛行に向けて飛びだった幼鳥が、突然矢で片方の翼を射抜かれ、平衡を失ったまま落下していくような、そんな眩暈を覚えながら大きくため息をつくと、ぼんやりと焦点の定まらない目を天井に向けた。
 だが、このままでは際限もなく落下していくような気がしたので、気力を振り絞り何事もなかったかのように、ふたたび静子に問いかけた。

 「辞めたとき、相当落ち込んでいたんでしょうね。」

「いいえ、ちっとも。」

と静子は目を大きく見開いて明るく答えると、そのままにこやかな表情で話し続けた。

「なんかうきうきしてましたよ。
せいせいしたって感じかしら。
もう、それ以前と比べたら別人みたいなの。
不思議なくらいよ。
ええ、もちろんそれは辞めた後のことよ。
決断するまでは相当悩んだみたいよ。
わたしにははっきりと言わなかったんだけど、何かで相当深刻だった見たい。
とにかく、毎日死神に取りつかれたような暗い顔をしていたわ。
それに有美のこともあったでしょう。
有美のほうはそれほどでもなかったかだけど、主人のほうは顔をあわせようともしなければ、たとえあってもロを利こうともしない、間に入って私どうしたら良いのかと、本当に困ったときもあったわ。
もうとにかく、今年は初めから、ずっと氷の家に住んでいるみたいで、主人がこのまま偏屈で頑固な爺さんになってしまうんじゃないかと思って暗い気持ちになったこともあったわ。
でも、ある日突然変わったの、不思議なくらい突然に。
気持のいい風が吹いている午後だったわ。電話もなく帰って来るなりいきなり、今日有美に会って来たって言うの、私は心臓が止まるくらいびっくりして、だって、有美に何か変なことを言って取り返しのつかないことになったんじゃないかと思ったものですから。
それで私が、動物園に、と聞いたら、そう働いているところを見てきたって言うの、そして、人生は色々、人生は楽しまなくちゃなあ、なんて、人が変わったように明るい顔で話すのよ。
それから二三日してからね、退職を決断したのは。
もう何がなんだか判らなくて、いったい何があったのかしらね。
有美に聞いてもわからないって言うし。」

「すると兄貴と有美ちゃんは和解したんですか?」

「そう、そうらしいのよ。なんか私の知らないところで仲よくなったみたいで。
あんなに心配したのに、私バカみたい。
それでいまは、父と娘というより友達見たいな関係なの。主人もそのほうが楽しいみたいなの。
とにかく、どうしちゃったのと思うくらい、急に明るくなっちゃって、ふっ切れたとい感じかしらね。
それからちょっと前まではまったく考えられない事だったんだけど、よく出歩くようになったの。ゴルフ以外趣味がなかったでしょう。
退職したらどうなるんだろうと心配したんだけど、今日はあそこの美術館とか、今日はどこどこの公園の野鳥観察とか、花見とか言ってね、なにかと理由をつけては、一人でも行こうとするの、子供のようにはしゃいでね。
有美の所にもときどき行ってるみたいだし。
あっ、そうだったわね。
有美がどうなったか、洋三さんには話してなかったわね。有美のことはだいたい知ってるわよね。色々なことあったけど、結局、私たちが薦める就職はことごとく駄目になったの。
でも、そこまで行くまでが、いつもいつも、もうとにかく大変だったわ。
私の立場も考えてくれなんて、主人に怒られるし、わたしにだって立場はあるのにねえ。
本当に変になりそうだったわ。
四度目も駄目になって、あるとき有美と話し合うことにしたんです。有美に言ったの、お父さんがどうのこうのって言うわけじゃなくて、親としてはとにかく良い会社に入ってもらいたいの、それはあなたのためにもなるんだからって。
そうしたらあの娘、私の顔をじっと見ていうの、
『ねえ、お母さん、本当のこと言っても良い』
って。

 わたし心臓が止まるかと思ったわ。
なにを今になって本当のことだなんて、いったい何を言うのかしらってね。
そうしたら有美が言ったの、笑顔でね、
『いや、そうじゃなくて、いやねえ、お母さん、そんなんじゃないわよ。ねえ、お母さん正直に答えて、私がお父さんが薦めるような一流会社に入っても、本当にやっていけると思う、本当に私のためになると思う、本当にわたしにあっていると思う』
てね。
私はもう何も答えられなかったわ。
もうそれで決心したの、そして言ったの、お父さんがなんで言おうと、有美、あなたのやりたい様にしなさい、お父さんのことは私に任せなさいってね。
それからどのくらい経ってからかしら、そう十一月の始め頃だったかしら、たしか夕方になるとめっきり寒くなってきたころだから。
一緒に台所に立っているとき、有美がわたしに言ったの、
『わたし今度動物園に勤めようと思っているの』
って。
動物園といっても、公営の大きなところじゃないのよ、私設のこじんまりとして小さなところなの。表の通りをずっと東に行った所に高台があるでしょう。
その中の遊園地の隣に去年新しく出来たらしいの。
なんでも、怪我や病気をして行き場がなくなったり、買主に捨てられたりしたのを引き取っているらしいの。
海のものでも陸のものでも、大きいものでも小さいものでも、どうなものでも扱っているらしいの。だから、こじんまりとしたって言うよりごちゃごちゃとした感じかしらね。
そのとき有美はアルバイトで、病気のラッコを世話することになっていたみたいなの。
規模が規模だけに、この先どうなるかわからないでしょう。
最初、将来のことを考えるとどうしても賛成する気にはなれなかったわ。
でも日を追って夢中になっていく姿を見ていると、なんにも言えなくなったわ。
昨年のあの例のパーティの日は相当疲れていたみたいね。
お父さんには黙っていたの、どうせはなっから反対するのは判っていましたから。
それであんな結果になったのよ。仕方ないわよね。
今年四月からは正式に働いているの。」

「ところで有美ちゃんは動物好きだったっけ。」

「そうなの子供のころそんな気配少しも見せなかったわ。
むしろ嫌いなのかなあって思っていたぐらいよ。でもね、いま初めて人に話すんだけど、実はずっと気になっていたことがあるの。
有美が三つぐらいのときだったかしら。動物園に行ったとき迷子になったことがあるの。
結局、無事に見つかったんだけどね。
帰り道手を引いて歩いているとき、有美が変なことを言ったの。
牛さんとライオンさんと遊んでいとのって。
変な事言う子ねえ、夢でも見たのかしらと思って、そのときは聞き流していたの、でも、家に帰って着替えていると、有美の洋服に何かが付いているのに気がついたの。
よく見ると茶色い毛のような物がついていたのよ。
まさか、そんなことありえないわよね。」

 そう言いながら静子は不安そうに下を向いた。
 そしてゆっくりと顔を上げるとふたたび話しはじめた。

「あっ、そうそう今度社長に就任したんですよね。
おめでとう。
お祝いのパーティやるんでしょう。
盛大に。
もちろん招待してくれるんでしょう。
今日はそのことで来たんでしょう。
そうでしょう。」

「いやあ、まだ決めてないんですよ。
とにかく忙しくって、それどころじゃないんですよ。
ところで兄貴は何時ごろ帰ってくるんですか?」

「そうね、いまは八時。
前は九時ごろだったから、今日もその頃かしら。」

「そんな趣味はなかったのに、いったいいつ目覚めたんだろう。
急に始めたみたいだけど、なんかきっかけがあるんでしょう。」

「それは簡単よ、有美がつれてきた人と一緒に行っているのよ。その人、有美が働いているところの水槽に、ときどき海水を運んでくる人なの。」

「若い人なの?」

「そうね、二十五歳、純朴な青年よ。」

「、、、、ところで、有美ちゃんがこの家に来たのは、どのくらいのときでしたっけ、、、、」

「ちょうど六ヶ月。」

 そのとき電話が鳴り、静子が席を立った。

  洋三はほとんど聞いているだけだったが、酔いで疲れが出たのか、眠気を覚えたのでそのままソファーに横になった。
 それからどのくらい経ったろうか。
 洋三は自分のほうに近寄ってくる人の気配を感じた。
 眠っている自分に毛布をかけているのが判った。
 薄目を開けて見るとその全体の雰囲気からして静子の様だった。
 そしてふたたび目を閉じ眠ることにした。

 ふたたび目覚めると、向かいの席に人の気配を感じた。
 静子かなと思い、洋三は頭だけをゆっくりと動かして薄目を開けて見た。
 するとそれは有美だった。
 有美は洋三が目覚めたのに気づかぬように、なにかの書類に目を通していた。
 洋三は盗み見るようにそのまま見ていた。
 そして、無意識のうちに、今までの有美についての思い出や周囲の者の話しの内容から、自分なりに思い描いていたイメージとしての有美と、今、目の前にいる現実の有美を比較しいてた。
 だが、じきになんとも言えない後ろめたい気持になったので、今まさに目覚めたかの様に軽くうなり声を上げて起き上がると、両手を上げ大きく背伸びをしながら、壁に掛けられた時計を見た。
 そして、もう十一時かと不思議そうな顔をして言ったあと、有美のほうに向き直り話しかけた。
「お父さんは帰ってきた?」

「ええ、でもすぐカラオケに行きました。」

「カラオケ、一人で?」

「お母さんと」

「えっ。」

と洋三は驚いたように声を上げた。
 というのも、ちょっと前まで不安そうな表情になったり涙ぐんだりしていた静子とき思えないほどの豹変振りを感じたからであった。

 洋三は冗談ぽく言った。

「遠路はるばる重い荷物を背負って訪ねてきた弟をほっといて遊びに行くなんて、なんて薄情なキョウダイたちなんだろう。
ああ、これで何もかもおしまいか、、、、まあ、良いか。
それはそうと、どうも不思議なんだよね。
三時間も眠っていたなんてどうしても思えないんだよ。
ネエさんが毛布をかけてくれたのはついさっきのような気がする。えっ、なにか可笑しいこと言った?」

「いえ、毛布をかけたのは、母じゃなくて私なんです。」

「えっ、そんなはずないでしょう。
よくは見なかったけど、雰囲気はネエさんそのものだったよ。
てっきりネエさんかと思っていた。
本当に?」

「ええ。」

「へえ、そっくりなんだね。
雰囲気からして、、、、そうすると、お父さんはいつ帰ってきたの?」

「私が帰ってきたのは九時ちょっと前、それから十分ぐらいしてからかしら。」

「それから私をほっといて二人で出かけたって訳ですか。何か言ってなかったですか。」

「ええ、これといって、べつに何も。
でも、何故か、逃げるようにしてっていうか、あわただしく出て行きました。」

「すると、お父さんたちは、よく二人でカラオケに行くの?」

「今度で二度目かしら。」

「まあ、仕方がないか、、、、それじゃ有美ちゃんはずっとそこにいたの?」

「そう言う訳でも、、、、」

「不思議だね。今日は不思議なことばかりだよ。
有美ちゃんとこうして話すなんて、初めてだよね。本当に初めてだよね。
どっちかっていうと、今までわたしを避けているみたいだったよね。
どうしてなんだろう。」

「怖いって言うんじゃないけど、なんか近寄りがたいっていうか。
やっぱ男の人って、女の人とは何かが違うなあって言う感じかしら。
いままそうでもないけど。
さっき子供のように安心したような顔でぐっすり眠っている所を見たからという訳じゃないんですけど、なんか大変なんだなあと思ったり、、、、なんか前とき違うなあと思ったりして、、、、」

「自分ではそんなに変わってないと思うんだけどなあ。
、、、、そう変わってない、変わってない、、、、」

と洋三は最後の方はうつむきながら独り言のように言った。
 有美が席を立ち水を持ってきてくれた。洋三はそれを飲むとふたたび話しはじめた。

「仕事は楽しい?」

「ええ、とっても。」

 「それはよかった。
それが一番大事なことだからね。
有美ちゃんのその笑顔が、いまどんなに充実した毎日を送っているのか、いまどんなに幸せかを、十二分に語っているよね。
いいことだよ、幸せになるのは、、、、何も悪いことじやないんだよ、幸せになるのは良いことなんだよ。
悪く思わないでね、始めにどうしても話しておきたいことがあるのね。おじさんも、あなたと同じ年頃の子供をもつ人の親だからね。
どうしてもお父さんやお母さんの見方になってしまうんだよ。
判ってくれるよね。
あれ、なんか変になってきたかな、、、、もう済んでしまった事なのかもしれないけど、悪く思わないでね。どうしても気になってね。
本当にこのままで良いのかな、かな、なんちゃって思ったりして。ほんと、余計なお世話だよね。なんか変だね、話しを蒸し返しているみたいで、えへ、えへ、ごめんね、ああ、そうか、おじさんが間違っているのかな、もしかして、あは、時代遅れなのかな、あは、若者に理解ある振りをして、本当は新しい生き方を認めない偏屈な頑固親父なのかな。
えへ、本当に困った。
なんていって良いのか、判らなくなっちゃったよ。
えへ。」

 やわらかい笑みを浮かべ、落ち着いた表情でじっと話しを聞いている有美を前にして、洋三はかつて経験したことがないような不思議な気持ちになっていくのを抑える事が出来なった。
 それは自分の情感をまったく制御することが出来ないものであり、話し続けていくうちに、なぜか訳が判らぬままに、少年のように照れたり、戸惑ったり、年甲斐もなく動揺し混乱した。
 そんな洋三を前にして、有美が助け舟を出すようにおもむろに話しはじめた。

「そうだと思いまう。
おじさんのおっしゃるとおりだと思います。
決して間違いではないと思います。
わたしには弁解の余地なんてまったくないわ。
親に心配させるだけさせといて、自分の好きなようにするわがまま娘、自分ひとりで大きくなったつもりでいる恩知らずな娘、親の言うことを聞かない傲慢な娘、苦労を知らない世間知らずな娘、なんか皆当てはまるような気がするわ。
就職のときなんで聞こえよがしに言う人がいたわ。
せっかく親が用意してくれた良いところには入れるのにわざと入らないなんて嫌味ね、それとも欲が深いのかしら、なんてね。
でも、本当の事言うと、お父さんの力では入れるなんて、最初は知らなかったの。
もし知っていたら、、、、もし知っていたとしたら、わからないわ。簡単には言えないわ。
最初から行かなかったかもしれないし、世間知らずと思うかもしれないけど本当のことなの。
噂には聞いていたわ。
親の力で大学や会社には入るってこと。
本当にあるなんて信じられなかったわ。
そんなことはよくないこと、不正なこととずっと思ってきたし、とにかく自分の実力ではいるもんだと思っていたから、二度目からは、正直、悩んだわ。
これで良いのかなって。
だって、今までずっと良くないことだと思ってきたことですから。
かといって、お父さんのこともあるし、いっそのことその方が楽かなって揺れ動いたこともありますけど、でも、どうしても出来なかったわ。
それは、よくないことと思っていたからじゃないの、そんなことじゃないの、本当の理由は、、、、そういう仕事は自分に合わないんじゃないかって、よく世間で一流といわれる会社は自分に会わないんじゃないかって、自分は本当はそんなところには入れるような優秀な学生じゃない、そんなところに入っても本当にやっていけるのかってね、思うようになったの。
そうなの、私って子供のころから色んな事を習ってきたけど、なんにも物にならなかったわ。ピアノでしょう。絵画、日本舞踊、それに各科目ごとの家庭教師、でも成績はずっとそこそこだったわ。だから、もしかして、自分には才能がないのかもって、自分には会っていないんじゃないかって、いつも思っていて、本当は好きじゃないのかもって、そう思うとなんかもったいないような気がしていたわ。でも、お母さんに嫌だなんてとても言えなかったわ。
本気で期待していたみたいだったし、とにかく私が色んな事をやるのが嬉しそうだったから、わたしのためを思ってと、本気で信じているみたいだったから。

 洋服なんかも、ずっと名の通ったものばかりだったわ。
きっと、わたしは、まだ何もわからないくらい小さかったから、そのときはただ夢中で嬉しかったんだとおもうわ。お母さんの買ってくれるときの楽しそうな顔を見ているとなんとなく判るの。でも、物心が付くようななってから、なんとなくもったいないなあって思うようになったわ。でも言えないですよね。
いつもと変わらない嬉しそうな顔を見ていると。
でも、本当は違うのよって、子供なのに、才能もないのに、自分だけがなぜこんないい扱いを受けるなんて、よその子供たちとは、はっきり言って違うなあっていつも一人で感じていたわ。
こんなにまでやってくれた親の期待を裏切るなんて、ほんとうに悪い娘だと思うわ。
私に才能がないのは当然と言えば当然かもしれないけど。お母さんには本当に感謝しているわ。申し訳ないと思っているわ。
ことごとく期待を裏切ったんだからね。
かといって、このままお父さんの薦める会社に入っても、かえって惨めな思いをするだけじゃないかと思ったりして、ほんとにどっちが良いのか判らなくなったときもあったわ。
何もかも裏切ることになって本当に苦しかったわ。
あまりの苦しさにどうしようもなくなって嘘をついたこともあるの。就職の面接をすっぽかしたの。おなかが痛いって言って。
本当は最初から行かなかったの。
そのときが初めてなのお母さんに嘘を言ったのは。そんなある日心の中で思っていたことを正直に言ったわ。お母さんは理解してくれ。
心からかどうかは判らないけれど、でも、味方になってくれて本当にうれしかった。
でも、お父さんにはどうしても言えず日に日に気まずくなっていくだけだったわ。
ても、それまでの苦しみは本当の苦しみではなかったかもしれないわ。
まだどうにかなるだろう、もしどうにもならなくなったら、そのときは、なんてと甘い気持があったかもしれないの。それは、ある日ふと気づいたの。
ちょっと前にお話したように、私はそんなに出来るほうじゃなかったの、いつもそこそこで、それでもしかしたら、高校や大学の進学もすべて、わたしの力ではなかったのではないかと思ったの、親が裏でやってくれたのではないかと。
そう疑い出したら本当にもう苦しくって絶望的な気持になったの。
もしそうだったら、私ってなんだろうって。私にはなんにもないことに気づいたの。これからどうしようって暗く絶望的な毎日だったわ。
自分の力で自分にあった仕事を探すと入ってみたけれど、本当は何の当てもないから、どうしてよいか判らずに、心細くて孤独だったわ。
お母さんが味方になってくれていると判っていてもね。そんな沈んだ気持ちでしばらくすごしたあと、あるときなんとなく今勤めている動物園の前を通りかかったというか、行ったというか、そこで、元気のないラッコに飼育係の人たちが手を焼いているのを見たの。
そのとき私は突然思ったの、私には出来るって、私にはそのラッコわ元気にさせてあげることが出来るって。
そしてアルバイト募集の張り紙がすぐ目に入ってきたわ。
それからは後先考えずにただ夢中でわたしにラッコの面倒を見させてくださいって言ったの。
相当強引でルール無視だったらしいわ。
今でもそのときの事を話題にして私をからかう人がいるくらいよ。
思ったとおり、そのラッコは私になついてくれて、それがだんだん元気になっていったわ。それがきっかけで正式に働くようになったの。
すべては単なる偶然のような気がするわ。
最初、お父さんは認めてくれなかったけど、今は何故か応援してくれているの、お母さんよりも積極的に。
えっ、何かわたしの顔に付いているのかしら。」

「あっ、いや、そうじゃないんだ。」

 そう言いながら洋三は我に帰るような気がした。 
 思わず見を乗り出して有美を見てしまっていたのだ。
 それは何か秘密を隠しているものから、その秘密を探り当てるような目であった。
 この場合の秘密とは、有美の瞳の奥に隠されている何かであった。このとき洋三自身は、自分がした質問にはもう興味を失っていた事にはまだ気づいていなかった。
 そして普段陥ることのないような様々な妄想に支配されていた。それは、有美は特別に動物にとりつかれやすい性格なのではないかとか、あるいは、猛獣を操る特別の才能を持っているのではないかとか、それとも、何かの動物の生まれ変わりではないかとか。

  そのとき電話が鳴り、有美が席を立った。しばらくして笑みを浮かべて戻ってきた。
 その間だいぶ冷静さを取り戻してきた洋三は尋ねるように言った。
「お母さんから。」

「いいえ、皆大げさなんですよ。
怪我はだいじょうぶかなんて。
このときも大騒ぎをして、お母さんに電話したりして。
ちょっと引っかかれただけなの、大したことないのにねえ。」

 有美の腕の包帯に目をやりながら、洋三は落ちついて言った。

「ねえ、質問しても良いかな。
有美ちゃんが小さいとき、正確には三歳の時と言うことなんだけで、ライオンと遊んだことある、そのときのこと覚えているかな。」

「いいえ、覚えてないわ。
お母さんが言ったの、初めて聞くわ。わたしがそんなことしたなんて信じられないわ、お母さんの勘違いじゃないかしら。」

「いやあ、もしかしたら有美ちゃんにそんな特別な能力があるんじゃないかと思ってね。」

「そんなことないわよ。
もしそうなら、今日みたいに引っかかれたりしないと思うわ。
気難しい豹がいるの、だいぶ懐いて来てはいたんだけど、なぜかしら最近また変になっちゃったの、本当に判らないわ。
ラッコだってそうよ。
自分の力でなんにも決められずに暗く沈んでいるときに初めて会ったのね、それでもすぐ私になついてくれるって、私には確信があったのね。とにかくその時はなにも考えずに自然に振舞うことが出来たわ。
それであんなに仲良くなれたのに。
でも、最近妙によそよそしくなってきて、前は私が行くとすぐ甘えるように酔ってきたんだけど、おととい個人的な用事で仕事を休んで、昨日行った時なんか、初めに会った時のように知らん振りをしているのよ。
私には判らなくなったわ。
だからもし、私が特別な能力を持っているならそんなことないわよね。」

 判ったような判らないような、でも洋三は納得することにした。
 時計は十二時をまわっていた。
 今日、兄清二をたずねた目的はもうどうでも良いような気がした。
 というのも、今の今までその目的を忘れていたからであった。
 洋三は清二に会わずに帰ることにした。
 外に出ると空気はひんやりとし、虫の音に気づいた。
 人影の途絶えた住宅街を歩きながら、有美と過ごしたことが、心地よい目覚めをよんだ夢の様に思い出された。

 そして、昼間の出来事は紛れもない現実ではあったが、すべてが遠い遠い昔の出来事のように感じられ、気持が楽であった。
 なぜ昼間は、あんなにわれを忘れて見苦しいくらいに反発したり、やみくもに絶望したりしたんだろうか、なぜあんなに、倒産とか崩壊とか無能とか不正とかという言葉に、猟犬の群れに追いつめられた野狐のように怯えたんだろうかと不思議に思った。
 もしかして自分は完全無欠なリーダーを目指していたのではないかと疑った。
 洋三はなんとなく振り返らずにはおれない気持になった。
 後ろ向きに歩きながら有美の家のほうを見た。 
 そして、えもいわれぬ爽快感を覚えながら向き直ると、顔に心からの笑みを浮かべて、すべては明日からもう一度出直しだと自分に言い聞かせた。