ねむの木

 それにしても、あの男の人、なんで手に包丁なんか持って、あんな人通りの激しいところに立っていたんだろう?

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    ねむの木 
             はだい悠  

        
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 おかあさんに、元気に、それじゃ行ってきます。
 と言って、家を出てきたけれど。
 でも、こうやって、後ろを振り返ってみないといけないんだ。
 うん。
 だって、あたしの後をついてくるかもしれないんだからね。
 きのう、それまではね、ときどき思ってはいたんだけどね。
 それでも、ずっと気になっていたっていうか、  不思議に思っていたことが、やっと判ったんだ。
 どうして、おかあさんはサヤの一日の行動をい知っているんだろうって、ということなんだけどね。 
 それで、夕べ思い切って聞いてみたんだよね。 
 おかあさん、もしかしたら、サヤの後をつけて来てないかって。
 そしたら、おかあさん、
「ええ、そうよ、だって、まだサヤちゃんのことが心配なんだもの。
 ちゃんとバスに乗れるんだろうか?
  降りるときも、決められたところでちゃんと降りられるんだろうかって。
 それに、あそこは繁華街だから、道に迷わずに勤め先のお店まで、行けるんだろうかってね。
 そこで、おかあさんとボランティアのお姉さんが交代で、時々なんだけど、サヤちゃんの後をついていったの。
 朝の通勤のときだけだったけどね」
って。
 もう、 やっぱりそうだったのか。
 それで、サヤのやることが話さなくても全部知っていたんだなあと思って。
 それまで、胸につかえていたものが取れたような気がして、ほっとしたんだけど。
 でも、サヤはおかあさんに言ったのよね、
「サヤは、もうだいじょうぶよ。ついてこなくても平気よ」
 って。
 そうしたら、おかあさんは、
「これからはしない」
って言ってたけど。
 でも、本当は信じられないもんね。
 だから、こうやってまた振り返らないといけないんだよね。
 今日はついてきてないみたいね。 
 うん、よかった。 
 あたし、もう一人でもだいじょうぶよ。
 だって、もう二十歳よ。
 他の人はもう一人で自由に出歩いているよ。
 それにね、何度もいっしょに練習したじゃない。
 どこをどう通っていって、どこのバス停で乗って、どこで降りて、それから緑色の電車に乗って、どこの駅で降りて、そして、どこを通って、勤め先のお店に行くかってね。
 それにね、もし何かあったときに備えて、タクシーの乗り方だって、何回も練習したじゃない。  だから、もう、あたしのことで心配することなんかないのよ。
 仕事だってちゃんとやってきてるじゃない。 
 もう、きっと、あたしはなんだってできるはずよ。 
 うん、たしかに。前はね。 
 うん、良く覚えてないんだけど。
 そう、前は,サヤ一人では何にもできなかったみたいなんだけどね。
 それで、おかあさんやボランティアのお姉さんや、園長先生がいろいろと助けてくれたみたいなんだけどね。
 でも、もう平気。だいじょうぶさ。
 あの角を曲がる前にもう一度見てみようっと。 
 うん、約束どおりついてきてないみたいね。
 まず、よかった。
 あれ、たしか、ちょっと前までは、この空き地に、タンポポとか色んな花が咲いていたのよね。
 今日は何もないんだ。
 もう夏が近いから。
 あれは夏の花だっておかあさんが言ってたっけ。
 それなら来年の春には、またここで見られるんだ。
 もう,お店に持っていけないのは残念だけど。
 しかたがないね。
 そういえば、おかあさん、いつだったか、こんなこと、言ってたよね。
「サヤちゃん,空き地や道端のお花を摘んだり触ったりするのは良いけど、公園や他の人の家の花壇の花を摘んだり触ったりしちゃだめよ。そういうのは見るだけにしなさい」
 って。
 あのとき、あたしが、空き地で小さい花を摘んで、それから、公園で、タンポポを摘んで、勤め先のお店に持っていったことを、どうして知っているんだろうって不思議だったんだけど。

 そう、あのときが疑惑の始まりだったのよね。
 うん、 でも、あたしはあのとき、それよりも,他の人の家のお花を摘んではいけないのはなんとなく判ったんだけど、道端や公園のお花を摘んではいけないのは、どうしてなのか判らなかったから、それで、おかあさんに聞いたのよね。
 そしたら、おかあさん、こまった顔して、しばらく考えてから、こう言ったのよね。
「自然に咲いてるお花にとって、一番良いのは、人間がそれに触った、摘んだりしないで、自然に生えているままにしておいて、見るだけにしておくことよ」
 あたしにはよく判らなかった。 
  だって、小さいころから、ずっと、あたしは、とにかく何でも手で触ってみて、じっくりと確かめながら、どんなものか知ることが大切だよって、教えられてきたんだからね。
 うん、でも、今は、もちろん見るだけにしているけどね。
 この角を曲がる前にもう一時振り返ってみて見よっと。
 うん、やっぱりついてこないっと、うん、これでよしっと。
 ここからは車も多いし人も多いから、気をつけなくてはいけないんだっけ。
 みんな歩くのとても速いね。急いでいるみたい。
 十分に時間は取ってあるから、自分のペースで歩きなさいって、お母さんがいつも言ってるから。 あたしは決して急がないもんね。
 バスが時間どおりに来れば良いんだけど。
 でも、いつも渋滞するからね。
 そう言えばいつだったか、すごく渋滞していたとき、ちょうどバスが出たところだった。
 それであたしはバスに乗り遅れたと思ったのね、そして、このままだと、勤め先の、お店に遅刻するとおもって、ちょうど渋滞してたから、走れば,次のバス停で乗れると思って走ったの。
 朝からとても暑い日だったんだけどね、でも、結局間に合わなかったんだよね。
 うん、そうね、あの日家に帰ったら、そのことをお母さんに言われたんだよね。
「サヤちゃん。バスに乗り遅れても、そのバスを追っかけたりしないで、次のバスがくるのを待てば良いのよ。五分か六分に一本はあるはずだからね。あせることはないのよ。それでも、どうしても遅れそうなときはタクシーを使えば良いのよ」
 って。
 あたしは、なんでおかあさんが、そのことを知ってんだろうって、あのとき、とても、不思議だったの。
 あれが、きっと、二度目のギワクのときだったんだけどね。
 それよりも、遅れそうになったら、タクシーを使えば良いって言われたことが、とても気になっていたから、そのことはすぐ忘れてしまったみたいなんだけどね。
 あたしは、タクシーがいやなの。
 タクシーに乗ると、とても不安になるの。
 あの狭いところで、見知らぬ男の人と二人っきりになるの、とても怖いの。
 あのからだの大きな男の人からくる圧迫感って言うの。
 それに、あのとてもきれいな感じ、なんかよそのお家に行ってるみたいで、とても落ち着かないの。
 以前に一人て乗ったとき、あがって訳がわからなくなってしまって、どこまで行くのって、訊かれても、行き先がすぐ重い出せなくてもじもじしていたら、何度も何度も訊いてきて、そのうち声がだんだんと大きくなってきて、やっとの思いで何とか思い出して答えたんだけど、とてもこわかった。
 そのあとも、あたしのことをジロジロ見てるし、なんかとても冷たい感じだったので、あたしは下ばっかり見ていたの。
 だから、もうタクシーなんかに乗りたくないの。
 それに比べたら、バスは良いよね。
 他に人がいっぱい居るから。 
 とても気楽で良いよね。
 今日は時間どおりに乗れそうね。
 あたしはもう慣れてるから乗車券は落ち着いて取れるもんね。
 今日はそんなに混んでないからここに座ろうっと。
 おかあさんは、まわりにお年寄りが居ないことを確かめてから空いてる席に座るようにっていつも言ってるからそうしているんだけど、それに、途中からお年寄りが乗ってきたら、席を譲るようにっても、いつも言ってるけど、あたしまだそんなことした人見たことないもんね。
 とにかく今日は窓から外が見えてよかった。
 そうだよね。あたしほんとうは、あういう派手な服を着たいんだよね。
 お母さんは、今は夏だから、白っぽいものが涼しそうで良いって言ってるけど、あたしは赤や黄色の花模様のスカートとか、ピンクや水色のブラウスを着てみたいんだよね。
 うらやましいなあ。
 前の席で、お母さんに抱かれて眠っている赤ちゃん。
 わあ、なんて可愛い手をしているんだろう。 透き通ってる。 まるでゼリーみたい。
 かじったらポロっと取れそう。
 触ってみたいなあ。
 うっ、触りたい。
お母さんや園長先生は、いつも、何か知りたいものがあったら、まず触ってみなさい、そうすれば、よく判るからって言ってたんだよね。
 それで、あたしは興味があるものはとにかく触ってみて、色々なことを覚えてきたんだよね。
 だから、どうしても触ってみたいんだよね。
 でも、触ったらきっと寝てるのを起こしてしまうかもしれないね。
 それに、おかあさんが言ったように、よその家のお花と同じように、触ったりしてはいけないのかもしれないね。そっとしておこう。
 あっ、いやなことを思い出した。
 昨日の夕方から、ずっと気になっていたことなんだ。
 昨日の夕方、勤め先の回転すし屋で、ある時間帯、人手が足りなくて、あたし、あまりやりなれてないレジをやったのね、もちろん、前に練習やっていたからなんとかやれたんだけどね。
 はじめはうまくやっていたんだけど、ふと、五千円札の中に1万円札が入っているのに気づいたんだよね。
 ドキッとして、あたしきっと、お客さんにおつりを間違えて渡したんだと思ったの。
 でもお客さんから文句を言われなかったから、そのままにしておいたんだけど、あれはきっと、後で調べれば判るはず。
 あたしそのことを正直に店長さんに言えなかったんだよね。
 きっと、今日、お店に行ったら言われるんだろうなあ。
 あの店長さんはとても厳しいから、怒られるかもしれないなあ。
 あっ、そうだ。
 今日、お店に行ったら、真っ先にそのことを言おうっと。
 でも少し怖い。
 あたしの勘違いなら良いんだけど。
 そろそろ市役所だね。
 わぁ、おかあさんの言うとおりだ。
 ネムの木っていうのは、夕方だけお花が咲くっていうのはほんとうだったんだ。
 今は朝だから咲いてないもんね。
 でも、あのことは、ちがうような気がする。
 おかあさんはよくお花の話をしてくれるのよね。
 うん、たとえば、お花って言うのは、見る人のいうことを聞いたり、見る人に話しかけたりするために、あんな形をしているんだよって。
 それは人間だけじゃなく動物や昆虫にも同じことが言えるんだって。
 さらに太陽までにもね。たとえば、ヒマワリは太陽からたくさん色んなことを感じ取りながら、ずっと、いつまでも太陽と仲良くしていたいから、いつも太陽の方を向いているんだよって。
 そこで、あたし、昨日、帰りのバスの中から見た、市役所の広場に生えている、高い樹の上に咲いているお花はなんて言うのって聞いたんだよね。そしたらおかあさんは、
「それは、ネムの木っていうの」
って。
 それから、
「ネムの木は、地震を予知するのよ」
って。
「たぶん、地面からなにかを感じ取るのね」
って。
 でもねえ、あたし、おかあさんに逆らうのは行けないと思って、そのときは黙っていたんだけど。 ほんとうは違うような気がする。
 それは地面からじゃなくて、空から色んなものをを感じ取っているような気がするの。
 うん、たとえばとおくでとおくで鳴いている鳥の声とか、色んな雲の声とか、それに、夕方にでてくる星の声とかね。

 そうなの、あたしのこと、みんなは、あまりしゃべらない大人しい子だと思っているかもしれないけど、でも本当は、色んなことを思ったり考えたりしていつも頭の中はいっぱいなの。
 でもうまくしゃべれないだけなの。
 小さいころのことあまり記憶にないからよくわからないけど。
 あたしが、おかあさんやボランティアのお姉さんたちといっしょに話しているとき、ずっと話していたかったんだけど、なんかあたしの言うことがいつもみんなとちょっとずれてるみたいなの。
 そのたびにみんなは、にこっとして、あたしにうなづいてくれるんだけど、本当はわたしの言うことが判って、そうしているとはとても思えないの。
 それは、いつまでたってもかわらないんだよね。
 どうしてなのかしら。ちょっと前にも、たしか、こんなことがあった。
 あたしが買い物に行ったら、お店の人が、あたしの顔を見て、おかしくもないはずなのに、少しだけ笑顔になったの、それがとてもいやだった。

 あっ、バスが着いたわ。降りなくっちゃ。
 あたしはいつも、乗車券に指の跡がついてしまうくらい強く握ってしまうんだよね。
 ここからは、駅まで歩くんだけど。
 でも、あたしは、いつも少し遠まわりをして、この横断歩道を渡って、公園をとおって、駅までは行くんだよね。
 向こうからぞろぞろやってくるおじさんたちが、ちょっといや、にがて。
 いつだったか、すれ違ったとき、あたしのことじろじろ見たの、そして、その中のひとりの人が、
「お姉ちゃん、どこまで行くの」
って、
 笑いながら言うのよ。 
 ふつう。
 知らない人に向かって、そんなこと言わないはずよ。
 なんかあたしだけが、特別に見られているような気がしてとてもいやなのね。
 このまえ、おかあさんから、
「サヤちゃんは、どうしてバスから降りたら、そのまま真っ直ぐに駅まで歩かないの」
って、聞かれたけど。
 あのときも、ギワクだったのよね。
でも、あたしは、あのおじさんたちが怖いから、そうして、いるんだって言ったっけ。そしたらおかあさんは、
「近くに競艇場があるから、そこへ行く人たちね。でも、わるいひとたちじゃないから、こわがることはないのよ」
って。
 でも、あたし、あの人たちとすれ違うとき、とてもどきどきして気分が沈むんだよね。

 まあ、このお花、おかあさんの言うとおり、あたしに話しかけてるみたい。
 ちょっと、見てみよう。
 どうしてみんなは、お花のことを見ないで、あたしのことを見ていくんだろう。
 あたしが、お花を摘むんじゃないかと思っているのかしら。
 もう、そんなことしないよ。
 でも、触るぐらいは良いだろうね。
 あっ、もうはそろそろ駅にいかなくっちゃ。
 あたし、今日は遅刻してはいけないんだ。
 おつり間違えたかもしれないのに。
 その上、遅刻までしたら、あの厳しい店長さんになんて言われるか判らないもんね。
 こっちの階段には、あのおじさんたちが居ないから安心する。
 電車ってあまり揺れないからほんとうに良いね。
 でも、眠くなるかな。
 あたし、いつもこうやって、椅子に座るけど、おかあさんたちが言う、ラッシュアワーってどんなんだろう。

 あたしが回転すし屋で働く前に、みんなと話し合ったときに出たんだよね。
 おかあさんが、
「サヤちゃんには,ラッシュアワーは無理ね。これからのために電車やバスに乗るのは必要だけど」
って言ったんだよね。
 あっ、それから、こんなことも話したっけ。
「繁華街は良いけど、夜遅くなるのはだめね」って。
 だから、始めは、あたしが、どんなところで働くのが良いのか、なかなか決められなかったんだっけ。そこであたしが。思い切って言ったんだね。
「回転すし屋で働きたい」
って。
 すると、みんなは驚いたように顔を見合わせ、
「あんなそうぞうしいところは、サヤちゃんには無理じゃない」
って言って、反対したんだよね。
 でも、あたし、どうしてもやりたいって言ったんだよね。
 あのとき、あたし、初めて言いたいことを言ったみたいなんだよね、それも強くね。
 それでみんなびっくりしたみたいね。
 だってそれまであまり言わなかったからね。
 あたしが、ほんとうに、やれるかどうか、心配したみたいね。
 でも、あたしは絶対にやれると思った。
 ねぇ、そうなったでしょう。
 店長さんが色んなこと、ていねいに教えてくれたからね。
 おかげですぐ覚えたわ。
 あたしもいっしょう懸命練習したからね。
 とくに、お客さんに、いらっしゃいませと挨拶するときの笑顔の作り方は本当にがんばったっけ。 何度も何度も店長さんからオーケーが出るまで練習したんだよね。
 それでついにオーケーが出たんだけど。
 そのとき、店長さんは最初あたしの顔を見ると、驚いたような目をして、首をかしげていったんだよね。
「これは完璧だ。サヤチャンの笑顔を見てるとため息が出る」
 って。
 あれはどういう意味なのかしらさっぱりわからない。
 どうもあたしって、色んなことで、他の人と違う見たいね。
 小さいころからなんとなく判ってはいたんだけどね。
 他の人のように学校には行かなかったからね。
 勉強も運動もみんなと同じようにできなかったみたいね。
 それで、ボランティアのお姉さんがいっしょに遊んでくれたんだよね。
 あのお兄さんって、教え方がとてもうまくて優秀な人なんだってね。
 おかあさんもお父さんもとても期待していたみたいね。
 でも、あたしはぜんぜん伸びなかったみたいね。
 あの先生はいっしょうけんめいていねいに、教えてくれたんだけど、いつもあたしは、ほかのことに気を奪われていたみたいなのね。
 先生のお話しにはぜんぜん興味が沸かなくて、さっぱり判らなかった。
 だって、それまでは、あたし、興味のあるものはなんでも、自分で触ってみたり、やってみたりしないと覚えられなかったんだもんね。
 でも、ほんとうのこと言うと、あたしあのとき、誰にもいわなかったんだけど、あたし、あの先生のこと嫌いだったのよね。
 ちっとも仲良くなりたいなんて思わなかったんだよね。
 あたし眠くなりそう。
 あっ、そうだ。もうそろそろビルの屋上に、あの大きなスプーンとフォークが見えるころね。
 あたし、いつもそれを見るたびにわくわくするの。
 いつ、大きな人が顔を見せるんだろうかって。
 それを思うと、気持ちが広がったような気がして、叫びたいくらい楽しくなるの。
 あれ、もう、こんな時間なの。
 遅刻しそう。
 今日店長さんにあったら、まずなんて言おう。
 あのこと、きっと、言われるだろうなあ。
 店長さんとても厳しい人だからね。
 急いで降りなくちゃあ。
 うんそうなんだよね。
 こうやって、エスカレーターに乗って、だんだん上がっていくうちに、ちょうとけ映画のスクリーンのように、四角い空が広がるんだよね。
 こうやって腰をかがめて見ると、まるで雲が動いているように見えるんだよね。
 いつも夢中になるの、今日はどんな形をしているんだろうって。
 ほんとうに楽しくって、ついにこにこしちゃう。
 今日は、急いでいるからやらないけどね。
 雲の形が面白いときは、一度上まで上がってからまた降りてきて、また上ったことが何度かあるのよね。
 とても楽しかったから。
 よく、おかあさんは、
「サヤちゃん、人がいっぱい居るところを歩くときは、あまりにこにこしながら歩いてはだめよ」って言うけど。
 それはあたしには絶対無理ね。
 うん、きょうは、雲がない、青い空だ。
 そとはきっと、暑いんだろうね。
 ほんとうにいつもいつも、ひとでいっぱい。繁華街だからね。
 あれ、あそこに立っている男の人、店長さん?
 もしかしてもあたしが遅刻しそうだから?
 それとも、昨日、あたしがおつりを間違えたから、それで、なにか、注意をしようと思って、あそこで、きっと、あたしがくるのを待っているのね。
 あっ、そうだ。
 あっちからなにかを言われる前に、こっちから先に挨拶しよおっと。
 思いっきり、笑顔で元気に。
「店長さん、おはようございます。きのう、、、、」
 あれ、ちがう、この人ちがう、店長さんじゃない。
「どうもすみません、間違えました」 
 もう、なんで間違えたのかしら、ほんとうに恥ずかしい。
 でも、ほんとうに、そっくりだったよね。
 お魚を切る包丁を手に持っていたりしてさ。
  でも、やっぱり違う、店長さんは厳しいけど、あんなに冷たい顔していない。
 さあ、いそがなくっちゃ。
 ほんとうに遅刻しそう。
 それにしても、あの男の人、なんで手に包丁なんか持って、あんな人通りの激しいところに立っていたんだろう?