はだい悠
第二部
「チュン、チュン、チュン、クッ、クッ、クッ、チッ、チッ、チッ、」
「今朝は久しぶりに当たりだったな。みんなが動き出す前に集めてきたんだ。ほら、酒だ。半分はあるぞ。ビールも一本はあるぞ。まあ、飲めよ」
「すまねえな、いつもいつも、ありがたいよ」
「まあ、良いってことよ、アニキ。遠慮するなよ。そろそろお天道様が出てくるぞ。今日も一日が始まるんだろうな。おらあ寝床に帰るけどさ。かっ、ああ、いい、しみる。なあ、キョウダイよ。どうしたんだろうな昨日は、確かこの辺だろう。騒いでいたのは。夜にもなんかあったみたいだな。最近おかしいと思わないか。妙にざわざわしてさ、テレビカメラは入ってくるし、おまわりにはうろうろされるし、なあ、いやだよなあ」
「うっ、うっ、ふう、ああ、いやだ、なんか落ち着かないよ。監視されてるみたいでさ。なんにも悪いことなんかしてないんだけどさ、すれ違うとき、なんかひやひやするよ」
「まあ、飲めよ、遠慮するなよ。いまのままでさ、このままでさ、なんにも変わらなくても良いんだよ。なんにも不自由なんかしてないんだからさ。ほっといてほしいんだよ。うっ、うっ、ふう。くそう、あのジジイの事件以来どうも世の中おかしいよ」
「うっ、ふう。なんだ、なんだそのジジイの事件っていうのは」
「あれ、お宅は知らなかったっけ。そうか、お宅は新聞なんか、へっ、よまねえからな、わかんねえだろうな。あっちのほうに何とか研究所ってあるだろう。そこからちょっとこっち側にでけえタブの樹が三本あるだろう。そのタブの木の根元に年がら年中一人で坐っているジジイがいるんだけど、そのジジイがさ、二週間ぐらい前に、動物園のライオンの檻の中にいるところを発見されたっていう事件だよ。お前、良い飲みっぷりだなあ」
「うっ、ふう。それでどうだったの、なんともなかったのけ」
「なんともねえ訳けないだろう。おい。ライオンにかまれて二ヶ月の大怪我だとさ。拾った新聞にはさ、入院したって書いてあったけど、昨日、包帯した奴を、例のタブの木の下にいるところを見たよ。奴は病院を抜け出してきたのかなあ。オレは新聞の写真を見たとき、すぐ奴だって判ったね。なにしろ、ちょっとやそっと出忘れられないような気味悪さがあるからね。奴になら何が起こっても不思議では無いというふうなね」
「うっ、うっ、ふう。なんで食われなかったんだ。それより、どうしてそこにいたんだ」
「判らない。新聞には酔っ払って自分から入って行ったんだろうって書いてあったけど、そうかなあ、いくら酔っ払ってても、自分から進んでライオンの檻の中に、入っては行かないぞ。食われるかもしれないのによ。でも、ちょっと頭がおかしいっていう噂だったから、考えられないこともないか」
「なあんだ、きちがいか、そのジジイは。うっ、うっ、ふう」
「そうみたいだ。お前も、よく飲むなあ。オレは奴と話したことはないからよくわからねえけど、陰ではみんな狂人と言ってるな。最初、近くで見たときはさ。寒気がするくらい気味が悪かったな。なに食ってんだかわかんねえけど、そんなにやせてはいないんだ。でも色は黒くてさ、干からびた土の塊みたいでさ、なんだこいつは、なにを考えてんだというような顔してんだ。頑固そうにも見えるし素直そうにも見える、凶暴そうにも見えるし、大人しそうにも見える、バカなのか、利巧なのかも良くわかんねえんだ。やっぱり狂人だからなんだろうか」
「それじゃ、まずそうだな。ライオンだって食わないだろうな」
「まずいか、そうだなあ。お前も飲んでばかりじゃなく、たまには良い事も言うんだなあ。アッハッハッハッハ。けどよ、そういう世間に逆らうようなことをされると、本当に困るんだよな。オレたちがさ、みんなそういうニンゲンのように思われるじゃないか」
「うっ、ふう。いるんだよいるんだよ、どこにもそういうのが。わざとみんなと違う事をやる変わり者が。でも、頭がおかしいんじゃなあ、、、、」
「なんか奴はだいぶ昔から浮浪者をやっているみたいだな。てっことは、元祖ホームレスってことだ。オレたちの大先輩ってことだな、アッハッハッハッハ。でもさ、どんなに冬の寒いときでも、オレは奴を今までに一度も施設なんかにいるところを見たことは無いんだよなあ。たぶん、奴はわがままで、個人主義なんだろうな」
「うっ、ふう。いるんだよいるんだよなあ、どこにもそういうみんなと協調できない偏屈者が。でもなあ、頭がおかしいんじゃなあ」
「けどよ、ほんとうに迷惑だぜ、そういう自分勝手なことされると。オレたちは誰でも日本人として生まれたからには、ニンゲンらしい生活が出来るように憲法で保障されてんだ。それなのに奴のやっていることはまるで、オレたちのためにある施設や援助が要らないって言ってるみたいじゃないか。みんなの足を引っ張るようなことばかりして」
「うっ、ふう。いるんだよいるんだよなあ、どこにもそういう常識の無い頑固者が。でもなあ、頭がおかしいんじゃなあ」
「うん、そうだ。あまり大きな声じゃ言えないけど、奴は人殺しだっていう噂だ」
「うっ、ふう。そういう危険なニンゲンこそ、うっ、ふう。そういう社会秩序を乱すようなニンゲンのくずこそ、警察は取り締まればいいんだよ。あぶなくってしょうがない。わしらを捕まえてどうしようてんだ。うっ、ふう。そのジジイどんな顔しているのか見てみたいもんだあ」
「よし、後で見に行こう。ガツンと言ってやる。自分勝手なことするなってな。ところで、キョウダイ、お前は寒くなってきたらどうするんだ。駅か施設か」
「うっ、ふう。そうだな。駅にするか、施設にするか、ちっと迷うなあ。施設は飯が食えるし、あったかくて良いんだけど。なんか窮屈だよなあ。それにどっか冷たいしなあ。うっ、ふう。なんたったって面倒くさいもんな。名前に住所だろう、そんなのどうでも良いじゃないか。うっ、ふう」
「それくらいならまだ良いよ。出身地とか、家族のことを聞かれるのは、もっといやだよ、思い出したくもないのによ。こっちにはプライバシーってものがあるんだから。余計なことを根掘り葉掘り聞くんじゃないよって言いたいよなあ。なあ、そう思わないか、プライバシーってもんがよ」
「うっ、ふう。そうだ。プライバシーだけどよ。何よりもいやなのはあれだよ。仕事やる気あるのかって、冗談じゃないよなあ。当たり前じゃないか、オレたちはやる気があるんだよ。だけど、オレたちを雇うところがぜんぜんないじゃないか。うっ、うっ、ふう。あってもなんだよ、オレたちに合わないような仕事ばっかしじゃないか、そんなわかりきったこと初めから聴くんじゃねえって言いたいよな。それだけじゃない、奴ら役人はさ、施設に入っている間に仕事を見つけろって言うんだよ。たったの一ヶ月で見つけるなんて無理だんべ。うっ、うっ、ふう」
「まあ、そうだな。そうだけど、真に受けるほうも、受けるほうだよ」
「うっ、ふう。どうしてだよ」
「そうだろう。奴ら、福祉課の役人っていうのは、それが仕事だ。決められた事を決められた通りにやるのがな。だからさ奴らだって一ヶ月ぐらいで仕事が見つかるなんて思ってやしないさ。オレなんかあれだよ。仕事先を紹介されたって、仕事をやる気で真面目に面接に行ったことなんてなかったよ。行く振りをしてさ、出るには出るんだが、一日中外でぶらぶらした後、夜になって、やっぱりだめだったと言うような顔してさよく帰ってきていたもんだよ。それで良いんだよ。奴らだってそんなこと百も承知なんだから。バカ正直に、奴らの言うとおりにやる必要はないのさ」
「うっ、ふう。建前と本音を使い分けるというやつだな」
「おっ、お前、わかるじゃないか。そうだよ、建前と本音という奴だよ。だいいち、オレたちがどんな仕事をやろうが、オレたちの自由なんだから、職業選択の自由って云って憲法にも保障されてんだぞ。判るか、キョウダイ」
「判るさ、オレにだって。うっ、ふう。自由な選択ぐらい、、、、」
「まあ、いっか。そんなことよりもさ、オレにはもっと頭に来ることがあるんだよ。子供じゃあるまいし。何時に起きろとか、何時に寝ろとか、門限まであるんだから。まるで監視されてるみたいじゃないか。オレは人から指図されるのが一番嫌いなんだ。冗談じゃないよまったく」
「うっ、ふう。そうだ、おれもきれえだ」
「いや、あのよ。皆と同じ部屋に寝泊りするのがいやだと言ってんじゃないんだよ。俺たちは大人だぞ。その大人に向かって、風呂に入れとか、けんかはするなとか、酒は飲むなとか、いちいちそれはないだろう。お前たちにはいったいどんな権限があって、そんなことを押し付けるんだと言いたいね。世間に迷惑をかけない限り何をやろうと勝ってじゃないか。なあ、日本は民主主義の国なんだぞ、自由な国なんだぞ。なあ、だから、そこまで言われると、なんかバカにされているとしか思えないよな。おい、そう思うだろう」
「うっ、うっ、ふう。そうだそうだ、完全にバカにしているよな」
「それもこれも、みんな、奴らが二重人格だからなんだよ。施設に入る前はさ、親切そうな顔して話しを聞くけど、いったん中に入ると、人が変わったみたいに冷たいニンゲンになるからな。急に命令ロ調になってさ、ちょっとでも規則を破ったりすると、鬼みたいな顔になってさ、怒鳴ったり、それこそあれだよ、ほんとうはさ、心のそこでは俺たちを差別しているという証拠だよなあ。ふん、人を何だと思ってんだ。警察みたいに威張り腐ってさ、いったい何様だと思ってんだろうね。人間は平等なのによ。オレたちには人権って言うものがあるんだぞ」
「うっ、ふう。そうだ。人間は平等なんだぞ、人権があるんだぞ」
「それに比べたら駅は良いよな。ちょっと寒いけど気楽でさ。おととし、あの時はすごかったよなあ。オレは五十年間生きてきて、あのときほど楽しかったときはなかったね。初めてだよ生きがいを感じたのは。全国の失業者やホームレスのために戦っている感じがして、警察とやりあっているときなんか、あれだよ、オレはここで死んでも良いとおもったもんね。オレたちの自由と人権のために戦っているんだよ。警察なんて怖いわけないじゃないか、なんか勇者になったような気分でな。おい、お前、酒ばっかり飲んでないで、少しはオレの話しを聞けよ。良いかい、オレたちに仕事はないのは、金持ちが金儲けのことばかり考えているからなんだぞ。良いかい、オレたちがこんな目にあっているのは、政治家が悪いことばかりやっているからなんだぞ。おい、おい、判っているのか。みんな、あのジジイみたいなもんだよ。自分勝手で、世間を騒がせてばかりいてさ、とんだ迷惑だよな。警察はさ、あんな奴こそ捕まえて、刑務所にぶち込めばいいんだよなあ。おい、お前、少しぐらいは遠慮したらどうなんだ。あれ、あきれたな、もう、みんな飲んじまったのかよ。ちぅ、役立たずが、、、、」
「うっ、うっ、うっ。それならオレにも言わせてもらうけどさ。お前はいつもオレのトイレットペーパーばかり使っているだろう。オレは、お前が自分のを使っているのを見たことがないぞ」
「なんだと、人の酒を全部飲んでおきながら、その言い草は。どうせ、どっからか、かっぱらってきたくせに。おっ、なんだ、やるか」
「ガシャン」
「うお、やるってえのか、このやろう」
「ドスン、グシャ、ドスン」
《わあ、びっくりしたなもう、いきなりなにすんだよ。
あのニンゲンたちは。
せっかく気持ちよく眠っていたのに。
さあ、早く離れよう。
危なくってしょうがない。
おっ、みんないる。
クロブチニシロ、ミケにカタミミ、マヌケにコワソウもいるな、なにしてるんだろう。
やあ、クロブチ、どこかへ行くのかい》
《あっ、タイガーか。なんかここにいるのが嫌になって、どこかへ行こうかなって》
《どうして、なにか嫌なことがあったのか》
《べつに、そう言う訳でもないけど》
《ここほど良いところはないぞ。
食うのには困らないし、遊んだり走ったり隠れたり、なんでも自由に出来るからな》
《タイガー、違うんだよ。
あいつだよ。
ツヨソウだよ。
あいつがみんなをいじめるんだよ。
あいつは、あいつにアイサツしなかったり、あいつより先に食べたりすると、すぐ怒ってみんなを引っかいたり噛み付いたりするんだよ》
《オレなんか、ちょっと先に食べようとしただけで引っかかれそうになったよ》
《新しく入ってきたチビなんかは、アイサツしなかったからと言って、噛まれて引きずりまわされたんだよ》
《威張りたいのは判るけど、あいつは少しやりすぎだよ》
《あいつに逆らおうなんて、誰もみんな思ってやしないさ》
《ツヨソウより先に食べてなぜ悪いの。
あいつはほんとうに強いのかな》
《あいつが来る前はこんなことはなかったわ。
みんな仲良くやってたよね》
《いきがってんだよ、あいつは》
《みんな意気地がないんだよ。
誰かいないのかね、ツヨソウに向かっていく奴は、、、、》
《おい、、マヌケ、どうしたんだその歩き方は》
《いや、キノウ、ニンゲンに捕まったんだ。
あのとき、とても腹減ってたからなあ。
それで檻に入ったらバタンだ。
タイガーも気をつけたほうが良いよ。
それでニンゲンに何かされたのか》
《いや、よくわからない。
でも、そのあと、なんかもぞもぞして歩きづらいんだ》
《痛いのか》
《それほどでない》
《ああ、いやだなあ、ケンキュウジョだ。
ここを通るとき、いつも走りたくなるんだ。
なあ、タイガー、そうだろう、、、、なにかあったのか?》
《いや、なんでもない。
先に行ってて良いよ。
どうしたんだろう、なんか気になるな、ケンキュウジョのほうが、、、、なんか聞こえたんだよな、ケンキュウジョのほうから、、、、とっても気になるんだよなあ、、、、静かだなあ、なんて静かなんだ、、、、あっ、変な匂いがするゴミ箱があるぞ、どんなに腹が減っても、あれだけはのぞく気がしないよ。
あっ、また、聞こえてきた。
なんて気になる鳴き声なんだろう。
こっちのほうだな、あっ、窓が少しあいている。
ヘイに上ってと、ヨイショっと。
何があるんだろう。
あっ、また、聞こえてきた。
中からだ。
よし中に入るぞ。
ヨイショっと。
静かだなあ、なんて静かなんだ。
人間はいないのかなあ。
くらいなあ、なんてくらいんだろう。
冷たいなあ、なんて冷たいんだろう。
あっ、色んな匂いがする。
イヌに、ネズミか、ここからはネコの匂いがする。
ここか、ここなのか、ネコの匂いのするここから聞こえてくるのか、、、、》
「コッ、コッ、コッ、おはよう」
「おはよう、おはようございます」
「コッ、コツ、コッ、」
《あっ、ニンゲンがこっちに来る。どっかに隠れないと、、、、》
「コッ、コッ、コッ、カチャ、コッ、コッ、コッ」
《あっ、猫の部屋に入った。
ドアがあいているぞ。
よし中に入ろう。
なんだろうここは。
あっ、あれか、檻に入っているあいつが鳴いていたのか、、、、おい、お前、どうして鳴いているんだい。
そんなものを体にくっつけて何しているんだい。
おっ、そうか、痛いのか、痛いんだな、、、、いや、ちがう、怖いのか、そうか恐いのか、、、、いや、ちがう、苦しい、そうか苦しいのか。
いったい何が苦しいんだ。
あっ、ニンゲンが来る、隠れないと、、、、》
「どうかね、橋本君、経過は順調かね」
「はい、どうにか。あっ、でも、麻酔が切れてちょっと痛いんでしょうか、ときどき鳴きますけど」
「ふん、ふん、そうか。がんばってくれよ、J五号、一日でも長く生きてくれよ。まあ、これでひとまず、埋め込み手術は成功と云うことだな。あとはどういうデーターになるかだけだな。村山君、計測のほうはうまく行ってるかな」
「はい、今のところはべつに異常らしきものはありません。先生、今日もくるんでしょうか、あの動物愛護団体の人たちが」
「ふん、あれね。こまった人たちだ。えっ、すると君は気になるのかね」
「ええ、少しうるさいですからね。でも、どうして急に、って感じですね」
「わたしはまったく気になりませんね。法律に違反することをやっているわけじゃないから。それよりも中に入ってくるんじゃないかと思うと、とても心配ですね」
「まあ、門の外で騒いでいるだけだから、だいじょうぶでしょう。ガードマンだってちゃんといることだし。科学の世界に感情を持ち込むんだから、ほんとうに困った人たちだ。おそらく論理的な思考の出来ない人たちなんだろうね。少し理性的にっていうか、冷静になって考えれば、動物実験がどれほど大きな役割を果たしてきたか、少しは判りそうなもんだけどね。どれほどの多くの人々の生命を救いながら医学の発展に貢献してきたか、ひいてはそれは、人類の発展に役立ってきたということだからね。わたしたちが今ここにこうして元気でいられるのも、みんなそのおかげなんだよね。動物実験は残酷だとか可愛そうだとかいって抗議する彼らだって、決して例外ではないんだよね。まあ、彼らの言い分も判らないこともないけど、でも、事情の判らない人が見たら、建物の中にはどんな悪い奴がいるのかと思うだろうね。どうかね、橋本君、君は悪い奴かね」
「いえ、いえ、僕はやさしいやさしいごく普通の人間ですよ」
「そうだろうね。村山君は、今まで自分のやっていることを残酷だと思ったことあるかね」
「いいえ、まったくないです」
「そうか、でも彼らは、そうは思ってないみたいだよ。わたしたちは血に飢えた吸血鬼か、虐待して快感を覚えるサディストかなんかのように思っているみたいだよ」
「先生、それはほんとうですか、ちょっと冗談がきついですよ。ボクはいつも冷静ですよ。真理を追求する研究者ですからね。今まで実験に特別の感情をまじえたことなど一度もありませんよ。だいいち、そんな余裕僕にはありませんよ。いつも実験やデーターのことで頭がいっぱいなんですから」
「先生、わたしたちのやっていることが残酷だというのなら、動物を殺して食べることのほうがもっと残酷のような気がしませんか。むしろ、わたしたちのほうはその反対でしょう。だって、ホケンジョで殺される運命にあった犬やネコを助けて、結果的には寿命を長らえさせているんだから。そうじゃないですか」
「僕は残酷というのは、昨日公園で起きた事件のようなネコの脚を何の意味もなく切ったりするようなことを言うと思います」
「そうだよ、あれこそ残酷というものだよ」
「それでは二人に聞くけど、君たちはそれがなぜ残酷と思えるのかね」
「なぜって、それは、残酷だから、なあ、村山」
「よし、それでは、もしそれがイヌだったらどうだろう」
「もちろん残酷ですよ」
「それがサルだったら」
「ええ、もちろん」
「では、そうだな、それがハトだったら」
「では、ネズミだったら」
「ネズミ、ネズミか、まあ残酷でしょうね。というより、なんか変というか」
「では、カエルだったら」
「えっ、カエルですか、カエルの脚を切ってなんになるんだろう」
「それじゃ、トンボやゴキブリだったらどうだろう」
「いやもう、それは残酷というより、そういうことをするニンゲンは気味が悪いというか、言いようがないですね」
「それはもう変人ですよ、変人」
「こうしてみると、君たちは無意識のうちに、この辺は残酷だがこの辺からは違うというふうに区別しているみたいだけど、その基準というか、根拠はなんだろう」
「ええと、ふうん、そうですね。イヌやネコというのはニンゲンのいうことを聞いて、よくなつきますよね。サルなんかもそうですけで。つまり、ニンゲンと一緒に生活が出来て、ニンゲンに大変可愛がられる動物だからじゃないですか」
「そうそうペットですよ。ペットになる動物だからですよ。それも他の動物よりはニンゲンに近いとされる哺乳類だからですよ」
「いや、そうかな、ハトは鳥類だよ。君たちにとっては、ハトの場合も残酷だということだったよね。それならば、哺乳類だからと限定できないんじゃないの。それよりも、さっき、ニンゲンになついて可愛がられる動物だからといったけど、それは人によってずいぶん違うと思わない。たとえばカエルやゴキブリをペットにする人、数は少ないけど、現実にいるよね。その人たちは、周りの人たちがそんなことはありえないと思っていても、カエルやゴキブリは自分たちのいうことを聞いてなついてくるし、可愛いとも思っているかも知れないよ。それに彼らにとっては、君たちと違い、カエルやゴキブリの脚をきることは、ほんとうに残酷だと思っているかも知れないよ」
「あっ、そうか、なんか、考えれば考えるほど、判らなくなりそうだな。基準なんて簡単に出てくると思ったんだかなあ。そう言えば、動物を殺して食べる事だって、人や国によってずいぶん違いますよね。ぜんぜん肉類を食べない人がいたりして。それに日本人にとっては平気な牛やぶたの肉が、宗教上の理由でだめな所がある反面、イヌや猫を食用にしている所もありますよね。ということは、つまり、基準なんて大体で良いんじゃないんですか」
「でもさあ、あれだよ。カエルやゴキブリの脚を切ったからといって、残酷だと騒ぎ立てる人はほとんどいないよ。やっぱりニンゲンに近いって云うか、反応するって云うか、ある程度知能が高い動物だからだと思いますよ」
「ハトは知能が高いか」
「高いんじゃないの、だって、遠くはなれたところから帰ってくるじゃないか」
「あれは本能じゃないの。ハトの場合は平和の象徴とかいって、特別にみんなに大事にされ可愛がられているからだよ。もしそれがスズメやカラスだったら、みんなはハトほど騒がないと思うよ」
「まあ、良いでしょう。ここでひとまず二人のいうことをまとめてみると、ニンゲンの身近で生活し、より多くの人に可愛がられ、ある程度知能が高い動物を傷つけることは残酷だということだね。ということは、その逆、つまり、ニンゲンに身近でなく、ほとんどの人から嫌われ、知能が低い動物を傷つけることは、それほど残酷ではないということになるけど、それで良いかな」
「はい、それでいいと思います。なあ村山君」
「ええ、僕もそれで良いんじゃないかと思います」
「それじゃ二人に聞くけど、猫の脚を切る。つまり、それはネコを傷つけるということだよね。それでは、そのネコを傷つけると云うことを、実は今わたしたちもやっているよね。なぜ、どうして、わたしたちがやっていることは残酷でないんだろう」
「それは先生、さっきおっしゃったじゃないですか。わたしたちは医学の発展のために、ニンゲンの生命を救うために、やっているんだって、ですから、その様にちゃんとした目的を持ってやれば良いんじゃないですか」
「そうですよ、その通りですよ、先生。昨日の事件の問いのは、意味が判らないというか、何のために猫の脚を切ったのか、まったく感じられませんね。どう考えても、誰かが個人的な感情から、ネコを痛めつけようとしてやったとか思えませんね。わたしたちがやっていることは根本的に違うと思いますよ」
「ということは、先程の結論は、次のように変わるのかな。ニンゲンの身近で生活をし多くの人に可愛がられ、ある程度知能が高い動物であっても医学の発展のためにニンゲンの生命を救うためになら、多少傷つけても許される、いわゆる残ではないと、どうだろう」
「はい、前のよりは良いと思います。村山君は」
「ええ、僕もそう思います。そのように考えれば、動物を殺して食べる事だって、簡単に解決されるわけだ。おそらくそれは人類に共通した考えなんでしょうね」
「あの良いですか。なんか変というか、ちょっと気づいたんですけど、その定義はニンゲンに当てはめれば当てはまるような気がするんですけど」
「人間には当てはまらないでしょう。だいいち人間は動物じゃないですから」
「いや人間だってしょせん動物だよ、似たようなもんだよ。遺伝子レベルから見たらたいして変わらないって言う話だよ」
「それはそうでしょうけど。人間と動物は同じじゃないですよ。人間は特別ですよ。今まで話してきたことは、あくまでも人間以外の動物が対象なんです。そもそも人間をどんな理由にせよ傷つけるなんて、それは犯罪じゃないですか」
「そういうことじゃなくって、なんて言うのかな。それじゃ聞くけど、医者が手術するとき、メスで体を傷つけるよね、それは犯罪だというのかい」
「だって、それは、それは法律で許されているじゃないですか。みんなから医者は良いって認められているからじゃないですか。人間を動物のように扱うことは悪いことですから、人間に当てはめることは、、、、」
「あれ、おかしいな、話がだんだんこんがらがってきたぞ。良いとか悪いとかじゃなくて、、、、」
「ちょっと良いかな、二人の話はかみ合ってないみたいだけど、橋本君の言いたいことは、つまり、人間にも当てはまるんじゃないかと言ったのは、ほんとうはあれだろう、医者の治療行為のことではなく、現在も新しい薬の開発のときに行われている、実際に人間を使った試験のことなんだろう」
「はい、そうです。ジェンナーの時代からおこなわれてきた人体実験のことです」
「やっぱりそうだったか。でも、現在、人間を使って行われていることは、本人の同意を得ることになっているし、また医者の治療行為と同様に、この辺までの試験なら良いだろうと、社会からというか、世間の人から認められていることだから、人体実験などと大げさなものではなくなっていると思うよ。だから、さっきの定義が人間に当てはまるか当てはまらないかなどと神経質になる必要なないと思うよ。だからこの場合、動物ということから人間を除外しても良いんじゃないかな、、、、」
「動物虐待は止めろ。ニンゲンの横暴を許すな。実験内容をすべて公開しろ。動物虐待は止めろ、、、、」
「また始まりましたか。 公開するにやぶさかではないですよ。 でも、それで果たして彼らが納得するか、ということが問題なんですよ」
「先生、わたしたちの動物実験を残酷だと決め付ける彼らの最大の理由はなんなんでしょう」
「なんか表向きには、動物に苦痛を与えることにあるみたいだね」
「苦痛ですか。だったらべつに非難されることなんかないんじゃないんですか。わたしたちは人間と同じ様にちゃんと麻酔をかけてやってますからね。それをいうなら人間にペースメーカーを埋め込む事だって残酷でしょう。相当の苦痛を与えているはずですよ」
「まあ、彼らにそれを言ったとしても、彼らはこういうだろうね。人間はちゃんと承諾を得てやっている。しかし、動物の場合は違うと。でもねえ、動物と意思の疎通は計れませんからね。動物がニンゲンの言葉を判るほどの知能があれば別ですけどね。とにかく、そういう非科学的なことは、わたしたちは到底受け入れられませんよ」
「先生、動物は苦痛というものをほんとうに感じているんでしょうか。前になんかの本で読んだことがあるんですけど、少なくとも人間が感じる様には感じないのではないかと書いてありましたよ。それから傷ついて体をぴくぴくと痙攣させたりしますよね。あれも人間からみれば痛そうに見えるけど、それほど苦しんではいないのではって書いてありましたよ。それなのに彼らはどうして苦痛を感じていると言いきれるんでしょうね。結局彼らは、自分たちが感じるように、動物たちも感じるだろうってかってに推し量っているだけですよね。そうですよね」
「それは非常に難しい問題だな。本能をよりどころにして現在だけを生きている動物と、知性をよりどころにして現在だけでなく、過去と未来を生きている人間とはおのずと違うことは間違いないんだが。動物が言葉を話してくれればどう感じているかが判るんだろうけど。その言葉、その言葉こそまさしく知性の産物なんだよね。人間と同じ様に神経はあるから、痛みは存在するだろうけど、それがどのような感情となっているかは人間とは違うはずだよ。なぜなら、ニンゲンのように微妙で複雑な色々な感情を持っているとは思えないからね。恐怖とか怒りとか、不安もあるかな、それらは共通にあるかもしれないが、幸福とか安心とか喜びとか悲しみとか笑いなどは到底あるとは思えないからね。それも結局は知性があるかないかの違いだと思うんだ。自分に今何が起こっているかを知ることが出来る知性があるからこそ、微妙な感情が育ち複雑になっていくと思うんだ。君たちにだって、動物にそういう知性があるとは思えないだろう。もしも、イヌやネコに自分の身に何が怒っているかを知る能力があったら、歴史は変わっていたろうね。きっと人間との間で戦争になっていただろうね。だって、ニンゲンが動物にやってきたことを知ることになるんだからね。だから、そこで、もしもだよ、未来においてイヌやネコがそんな知性を身につけたら、きっと人間に復讐をし始めるだろうね」
「なんか恐いですね」
「心配ないさ、そんなことはありえないから」
「動物虐待は止めろ。人間の横暴を許すな。実験内容はすべて公開しろ。動物虐待は止めろ、、、、」
「わあ、すごいなあ、さっきより人数が増えたみたいだ。本当ですね、知らない人が見たら、きっと中には極悪人が住んでいると思うんでしょうね。いったいどこから出てくるんでしょうね、彼らのあの自分たちは絶対に正しいんだといわんばかりの自信は」
「教授、彼らがあそこではっきりと自信をもっていえるには、きっと、動物実験がなぜ残酷で、それのどのあたりの動物までなら許されるかについての、どんな人でも納得できるような、合理的な理由というか、客観的な基準や根拠をもっているんでしょうね。それに動物が苦痛というものをどのように感じているかについての論理的で科学的な証拠やデータもね。ぜひ聞いてみたいものですね。そうすればわたしたちもどんなにやりやすいことか」
「いや、彼らがそんな基準や根拠をを持っているとは思えないね。それにもし話し合いによってその苦痛の問題が解決されたとしても、彼らが、はい納得しましたといって引き下がりとは到底思えないよ。彼らの本音はそんなところにはないみたいだよ。とにかく、すべてがだめ、すべての動物実験が駄目みたいで、それがだんだんエスカレートしていって、ニンゲンが生き物を利用すること自体が駄目みたいなんだ」
「まるで宗教みたいですね」
「そうなんだ。だから、彼らから見れば、わたしたちは悪い奴で、それも、とにもかくにも悪い奴でなければならないかのように思っていてね。その悪い奴らから動物の生命を救うことが、自分たちの崇高な使命であるかのように熱狂的に思っているみたいなんだ。その熱狂振りも、わたしたちが極悪人であればあるほどますます高まっていくような種類のものでね」
「そこまで来ると妄想狂の独善家ですね」
「勧善懲悪というやつですかね」
「こまったもんだ、どうすれば良いんでしょうね、わたしたちとしては。彼らは、人間と動物が共存するユートピアを目指しているみたいで、それに対してわたしたちは、それを妨害する極悪人みたいです。でも、その方が彼らにとっては都合が良いようにも感じるときがあるんだよ。なぜなら、それだけ過激にもなれ熱狂的にもなれ、戦い安いみたいだからね」
「なんか、考えれば考えるほど判らなくなっていきそうです」
「どうだろう、もう少し単純化して考えては見ては。つまり、この問題に関しては二つの極端な考え方があって、その一方は、人間の利益のためならすべての生き物を利用することが許されるという考え、もう一つは、どんな生き物でも人間の利益のために利用することはいっさい許されないという考え。この両極の考えの間に、わたしたちを含めほとんどの人々が色々な考えをもって存在するということにしては」
「うわあ、びっくりした。なんだこのネコは。なぜこんなところにネコがいるんだ。実験用のか」
「いや、違う。そんなのはいないはずだ。いつの間に入ってきたんだろう。野良猫だな。ちょっと恐いけどつかまえるか。そっちに行ったぞ。気をつけろ、噛み付くぞ」
「あっ、だめだ、こら。チューブをはずしたぞ。あっ、花瓶をひっくり返したぞ。くそ、この野良猫め。なんてことすんだよ。もうだめだ、コンセントをはずしやがって。あっ、もう、滅茶苦茶だ。よし、こうなったら、絶対に捕まえるぞ。おい、今度はそっちに行ったぞ」
「わあ、ドアから逃げていく、なんてすばやいんだ。いったいあいつはどこから来たんだ」
《逃げろ、逃げろ、捕まったら何をされるか判らないぞ。
こっちだ、こっちだ。
ない、ない、窓がない。
違うのか、あっちだ、あっちだ。
逃げろ、逃げろ、、、、》
「動物虐待を止めろ。人間の横暴を許すな。実験内容をすべて公開しろ。動物の虐待を止めろ、、、、」
《逃げろ、逃げろ、こっちはだめだ。
ニンゲンがいっぱい居る。
こわい、こわい、走れ、走れ、あそこはいったいなんなんだろう。
もう、良いかな、ここまでくれば良いだろう。
ほんとうにびっくりしたなもう。
おや、こっちに来るのは、カシコソウではないか。
おい、カシコソウ、どこへ行くんだ?》
《あっ、タイガーさん、ちょっとケンキュウジョのほうへ》
《なんだと、やめろ、やめろ。
あんなところには行くんじゃない。
どうして行くんだ?》
《コワソウさんが言うんだ。
何も食うものがなくって、腹が減って減ってどうしようもないときは、ケンキュウジョのゴミ箱へ行けって》
《だめだ、行くな、あそこへは絶対に行くな。
ニンゲンに捕まったら何をされるかわからないぞ。
カシコソウ、お前はそんなに腹が減っているのか?》
《うん、キノウから何にも食ってなくて、、、、》
《だって、キノウ、カタミミが教えたじゃないか。
こうすればオーエルから食い物を分けてもらえるって》
《それをやろうとしたんだ。
そしたら、ツヨソウが出て来て、そんな生意気な真似はやめろって、恐い顔してにらみつけるもんで。
ツヨソウが怒るとほんとうに恐いもんで》
《そうか、ツヨソウがか、、、、ところで、キノウのチビどもはどうしたんだ?》
《うん、あのクロチビは、どうしてもカタミミに教えられたようにドーロを渡れなくて、、、、それで車に轢かれて、見えなくなって、それっきり、アカチビのほうは、ニンゲンのくれる食い物をツヨソウより先に食べようとしたら、ツヨソウに怒られて、脅かされて、それでもういやだって、ウエコミの中に隠れて、それっきり出てこなくなって、ツヨソウは怒ると本気で噛み付くんだ。
引きずりまわすんだ。
まだ何にも知らないチビでも容赦しないんだ。
みんなツヨソウを恐がっているみたいだし、、、、タイガーさんは何か食べたんですか?》
《おっ、オレか、うん、オレも、キノウから、まだ何にも食っていないんだ》
《そうなんですか、それは、大変だ。
これからなんか食べ物を探してきます。
もし見つかったら呼びに来ます。
そうだ、ツヨソウのところへ行けば、なんとか、、、、》
《なあ、カシコソウ》
《はい、なんですか?》
《おまえ、イヤじゃないのか? ツヨソウに頭を下げるのは》
《へっちゃらですよ、それじゃ、いきます》
《、、、、、良いやつだ、良いやつだ、カシコソウは良いやつだ。
なんて良いやつだ、なんて良い奴だ。
オレはだめだ、オレはだめだ、オレはほんとうにだめだ。
ありがとう、ありがとう、ほんとうにありがとう、、、、》
「やあ、タイガー、どうしたんだ。そんなに情けない声を出して鳴いて。ひさしぶりだな、元気だった。どうしたんだそんな張り詰めた顔をして。あっ、これかい、この包帯かい。これはなんでもないさ。お前たちの遠いキョウダイのライオンにかじられてな、いやあ、参ったよ。奴ら、わしをかじるだけかじっておいて、ちっとも食おうとしないんだよ。なんてこった。ワっ八八八八。おい、トラ、良いものがあるぞ、さあ、食べろ。うまいぞ。おい、どうしたんだ、どこへ行くんだ。いらないのかい」
《ニヤーオ、ニヤーオ、カシコソウ、こっちへ戻ってこい》
《なんですか、どうしたんですか》
《こっちに、食い物があるぞ》
「なんだ、そうだったのか。仲間を呼んだのか、相変わらずだな、タイガーは。来たか、さあ、遠慮しないで食べな。おや、タイガー、どうした。お前は食べないのか。そうか、後輩に先に食べさせようとしているのか。お前はやっぱりタイガーという名前にふさわしいやつだな。若いの、お前はほんとうにカシコソウな顔をしているな、将来はきっとタイガーのような立派な大人になれるぞ。ところで、ワシのいない間に何かあったか。タイガー、そうか、ないわけないよな。何にもなかったらそんなに恐そうな顔をしてないよな。どうだ、なにかして遊ぼうか、これはどうだ。なんだ、どうしてじゃれないんだ。そうか、そうだったか、お前はもう子供じゃなかったな。もう、ニ年になるんだな、お前が始めてここに来たときはほんとうにチビだったな。だから、お前がタンポポの間から顔を出したときは、てっきりお前が地面から湧き出てきたのかと思ったぞ。そして、そこらじゅう楽しそうに走りまわってさ、なんにでもすぐじゃれ付いてさ、覚えているかい。覚えてないだろうな。あれから二年になるのか。二年といっても判らないか、キノウがいっぱいってことさ。キノウのキノウのキノウのずっとキノウってことさ。わかるか。キノウっていうのは、たしか前に教えたよな。キノウというのは、眼を閉じて、そのときは決して眠らないんだよね、そして仲間のことや恐いことや食べたことや遊んだことを思い浮かべるんだってね。判ってた。タイガー、お前さっきよりだいぶ穏やかな顔つきになってきたな。それでは今日はついでにアシタを教えようか。アシタというのはだな、あれ、あの太陽があっちのほうに行って見えなくなって暗くなって、静かになって皆がひと眠りして、そのうち今度はあっちのほうから出て来て明るくなって鳥が鳴いて、みんなが動き出すことをアシタというんだ。判るかな、わかんないか。ちょっと難しすぎたかな。じゃあ簡単に言おう。アシタというのはだな。腹をすかしているときに何かを食べること。だから、だから楽しいことうれしいことをいうんだよ。どうだ、今度は判ったろう。うん、どうだ、このくすぐったのか、気持いいだろう。今まで色んなネコを見てきたけど、お前のような変なネコは初めてだな。不思議なネコだ。なあ、タイガー、お前、ずっとここにいろ。お前たちは二年ぐらいすると、ふと、どこかに行っていなくなるんだもんな。いったいどこへいくんだ。まあ、良いか。おい、若いの、うまかったか。今度はアシタのアシタのアシタのあたりになるからな、そのときはまた食べに来いよ。さあ、お前もこっちに来ていっしょに話をしよう。お前もタイガーのようにワシの話を聞くようになれば、将来はきっと賢くてみんなから好かれるようなリーダーになれること間違いないぞ。判るかな、若大将、頑張るんだぞ」
《なんだろう? この若い女の人は》
「わあ、うっそう、ねえねえ、おじいさん、おじいさんはさっきから、そうやってネコに話し掛けているけどさ、まるでネコと話が出来る見たいね。嘘でしょう」
「もちろん、できるよ」
「うそつき、だって猫はなんにも話してないじゃない」
「言葉を話さなくたって、ちゃんと表情や態度でわかるんじゃよ」
「信じられない。じゃあ、今なんて言ってるの」
「いま、いまは、のんびりとして気持良いなあって」
「嘘みたい。ねえ、触ってもいい、噛み付かない」
「だいじょうぶだよ。人間の心がわかる賢いネコだからね。いま、あなたが近寄ってもぜんぜん態度を変えなかっただろう、ということは、あなたがとても良い人だと思って、安心しているということなんだよ」
「ふうん、名前なんて言うの?」
「これがタイガーで、ご飯を食って眠そうにしているのがワカダイショウだ。ああ、そうかそうか、なになにこのお嬢さんはとても良い子だって。でも、なにか引っかかるものが心の奥底に、そうか、悩みを持っているというのか」
「うそ、やっぱりうそ。おじいさんのロから出任せじゃない。タイガーはさっきからなんにも変わっていないよ」
「出任せじゃないよ。良いかい、さっきまで軽快に動いていたタイガーの尻尾が止まったじゃない。表情だって少し落ち着かなくなったよ。それは、タイガーがお嬢さんの心の中に何か居心地の悪いものを感じたからなんだよ」
「うそばっかし。だって、あたしはお嬢さんじゃないもの。それにあたしは暗くなんかないし、悩みだってちっともないし、毎日が楽しくって楽しくって、ほしいものは何でも買えるし、食べたいものは何でも食べられるし、あたしお金持ちなのよ」
「へえ、お嬢さんはお金持ちなの?」
「そうよ、お金持ちよ。だって、花の女子高生だもん。いまどきお金持ちじゃない女子高生なんていないわよ」
「ほう、お嬢さんは女学生なんだ」
「女学生じゃなく、女子高生よ。ねえ、タイガー、人間の心がわかるなんてうそでしょう。ねえ、あたしに悩みがあるというのなら当ててごらんよ」
「おい、タイガー、お前はうらやましいなあ。こんなやさしいお嬢さんになでられてもらって。このう、幸せものが! いっそのこと、このお金持ちのお嬢さんに飼ってもらったらどうだい」
「えっ、飼っても良いの、おじいさんのものじゃないの、ほんとに良いの?」
「良いさ、このあたりにいるネコは誰のものでもないんだ。みんな自由なんだ。ああ、世の中の人がみんなお嬢さんみたいに良い人だったら、この公園にいる猫はみんな幸せになれるのになあ。ねえ、お嬢さん、あそこを見てごらん、あのウエコミの中を、ネコがいるだろう。あのやせたネコ、いくら人が呼んでも寄って来ないんだ。決して人の手からエサをもらって食べようとしないんだ」
「どうして? あっ、ニンゲンが嫌いなのね」
「まあ、はっきりいってしまえばそうなんだけど。あの猫のあるき方がちょっとおかしいんだ、酔っ払いのような歩き方をしてさ、たぶん、ニンゲンに頭を蹴られたか殴られたかしたんだろうね。ほらあそこにもいるだろう、小さいのが、あれはまだ若いんだが、生きる気力をなくしたみたいで、あそこにじっとしたまま動こうとはしないんだ。えさも食べようともしない。たぶん、仲間にいじめられたんだろうが。実は、このコウエンにはあういうのがいっぱい居るんだ。ほとんどは何かに怯えるように隠れたままで、人前に出てこようとしないんだ」
「どうして、自由じゃなかったの? 自然の中で伸び伸びと生きてるんじゃなかったの?」
「そうなんだけど、自由といっても、自分の力で生きなければならないから大変なんだよ。人間のように助け合うというわけには行かないしさ。みんなそれなりに競争して生きているんだよ。このタイガーやワカダイショウだって、そんなかで一生懸命生きているんだよ。でも、なかには、ちょっと要領が悪いのとか、動作が鈍いのとか、不器用なのとか、頑固で意地っ張りなのとか、臆病なのとか、一生懸命やろうとしてもやれないのとか、努力しようとしても出来ないのとか、色々居るんだよ。そういうのは、みんなに遅れをとってえさにありつけなかったり、変わっているということで仲間から目をつけられていじめられたりしているうちに、だんだんいじけてしまって、結局生きることが嫌になっちゃうんだろうね」
「へえ、ネコにも性格が悪いのが居るのね。あたしたちと同じ見たいね」
「そうなんだよ、お嬢さん。人間の世界と同じなんだよ。ほとんどが一人ぼっちで、プライドは高いんだが意外と寂しがり屋なので群れを求めたりして、そのなかには特別に意地悪で暴力を振るうものが居たり、仲間を侮っていきがるものがいたり、自分勝手で欲張りなのが居たり、どうしようもなく弱く泣き虫なのが居たり、自分を大きく見せようとする見栄っ張りが居たりするところなんかは、人間の世界とほとんどそっくりだよ。だから喧嘩やいじめはしょっちゅうあるんだよ。いじめのきっかけなんていい加減て云うか、どうでも良いというか、ほんのちょっとしたことみたいだよ。みんなとなんとなく形が違うとか、感じか違うとか、そんなこと言ったって生まれつきだものしょうがないのになあ。それから天気がいいとか悪いとか、その場に集まった猫の数によって出来る雰囲気によっても、いじめが始まったり、始まらなかったり、ほんとうに気まぐれみたいだよ。だから、みんなと特別に形が違っていて弱そうで見たことがないネコだったりすると、たちどころに標的にされるみたいだよ。そのうえ、そいつが頑固で意地っ張りだったりすると、邪魔者、余計ものみたいに、目を付けられて徹底的に、もう二度と立ち直れないくらいに痛めつけられるみたいだよ。でも、お嬢さん、そういう犠牲者が居るからこそ、結局他の者が強い者として優位にたっていられるんで、それでだいぶ助かっているみたいだよ。なぜなら、いちいち全力を出して競争をしなくても済むからね。人間にだってあるだろう、誰かが失敗すればなんとなくほっとする気持になることが」
「そんなにいじめられるんだったら、どっかに逃げれば良いのにね、意地悪ネコの居ない、、、、」
「人間と同じで、ネコも仲間から離れては生きていけないのさ。それがどんなひどい仲間でも、いや、ひどければひどいほど離れられないのかな。依存症みたいになって」
「ねえ、おじいさん。あの猫たちはこれからどうなるの、誰も助けてくれないの」
「そうだね、残念だが、だんだん食べれなくなって、やせて骸骨みたいになって、がたがたになって歩けなくなって、ますますやせていってぼろぼろになって、眼が見えなくなって、動けなくなって、冷たい雨に打たれて寂しく死んでいくのかな。でもそれが、このようにしか生きることが出来なかった野良猫としての運命なんだよ。でもね、お嬢さん、助かる希望がないわけでもないんだよ。それはね、お嬢さんのような良い娘さんが、毎日声をかけ食べ物を上げて面倒を見てくれたら、きっと彼らも人間が好きになり再び生きる気力を取り戻すかもしれないよ。間違いなく元気になるよ。お嬢さんのような良い娘がやさしくしてくれたら、、、、」
「、、、あたし、、、、あたしは、そんなに良い娘じゃないもん、、、、」
「おや、どうしたんだろう。眠ったのかな、気を失ったのかな。おい、タイガー、お前わかるか。どうなんだ、、、、そうか、気を失ったのか、疲れているのかな、大変なんだな。 おっ、気がついたみたいだな」
「はあ、あたし、どうしたのかしら。急に胸が苦しくなってきて、めまいがして、気を失ったのかしら。おじいさん、あたし帰るわ、もし、良かったらまた来るね。タイガー、バイバイ」
「なあ、タイガー、いつのまに悪魔も住めないような町になったんだろうね、、、、なんだ、タイガー、お前結局なにも食べなかったのか。ワカダイショウは気持良さそうに眠っているな。いっぱい食ったからなあ。どうだ、お前もひと眠りでもするか、、、、ゴロニャーン、ゴロニャーンとな」
《なんだろう?、この年取った男の人は》
「ふん、あきれたもんだ。いったいどういうつもりなんだろうね。あんなに世間を騒がせておきながら、こんな所でネコとふざけあっているなんて。テレビニュースでお宅を見たとき、以前になんどかこの公園で見かけたことがあるホームレスじゃないかと思ったが、やっぱりそうだったか。なぜお宅はあのとき満足そうな顔して映っていたんだ。普通なら、ライオンに噛まれたんだから、恐怖で引きつった顔をしているはずなのに、お宅はあのとき、妙に落ちついた声で、確かこう言った。『野生を忘れたライオンはつまらない、つまらない。』周りのみんながどうなったと心配して集まってきているときに、よくも平気であんな人を食ったようなことが言えるね。どれほど多くの関係者に迷惑をかけているのか判っているのかね。お宅たちはいつもそうなんだ。ほんとうに人騒がせなご老人だよ。まあ、もっとも、お宅がまともな頭を持った人間であるということでの話だがね」
「なんでもない、なんでもないさ。良いから良いから安心して眠ろうじゃないか」
「少し失礼でしたかな、わたしよりはるかに年上と見られる方に向かってこんなロの聞き方をして。こうやって近くからお宅を伺っていますけど、はっきり言ってわたしには、お宅がどのような見識の持ち主の方か、それともまったく持ち得ない方なのかさっぱりわかりません。さっきから少しも表情をかえずにおられるので、わたしの声が聞こえているのか聞こえていないのか、それとも聞こえない振りをしているのかも、さっぱり判りません。まあ、それならそれで良いでしょう。わたしとお宅とは何の関係もないのですから。でも、せっかく来たんですから、もう少し話させていただきます。お宅はどうしてライオンの檻の中に入ったんですか」
「--------」
「そうですか、無視ですか。では、あなたはその痛々しい包帯姿で、あのときテレビのインタビューを受けて、なぜあんな幸せそうな、いや、とても満足そうな顔をしていたんですか」
「--------」
「また無視ですか。まあ、良いでしょう。でも、話は続けさせていただきます。あなたの心の奥底に眠っているに違いない常識が目覚めて、私に誠実な答えを返してくれることを期待しまして、、、、わたしが最初にあなたを見かけたのが、大学を卒業して就職をしたときですから、ちょうどいまから三十六年前の春でしょうか。確か、昼休みに、この人通りの少ない細い道を歩いていたときでしたか。それからいままで何度見かけたことでしょうか。二度目は確か、わたしが二十代にして課長に昇進したときでした。夕方、帰りのバスの中から。三度目は、わたしが独立をして新しい会社を創ったときでしょうか。あなたがここの公園通りの楓の木の隣にじっと立ち尽くしているのを、通りがかった車の中から。四度目は確か、わたしの会社が予想以上に発展して、株式を上場したときでしょうか、経済界のある会合に出たとき、あのビルの窓からあなたが木立の中に居るのを。そして、今日が五度目になる訳です。しかし、わたしは、あなたの印象深いというか、風変わりな姿に特別に興味が引かれ、記憶にとどめるかのようにじっと見ていたわけでは決してありません。風景の中の変わった古木のように、または、さび付いてもはがれずに残っている古い看板のように、覚えているに過ぎないのです。ということは、あなたとわたしはいうまでもなく赤の他人ということになります。ですから、あなたがわたしの質問に答える義務もなければ必要もまったくありません。わたしがあなたのことを、わたしの質問を無視した失礼な人間と思うのも、本来は筋違いのことなのです。しかし、わたしにはどうしてもあなたに言わずにはおれないものを、胸の使えのように感じているのです。わたしはこの三十六年間、国のため社会のため家族のために一生懸命誠実に働いてきました。おかげで人並み異常に地位や名誉を得ることが出来、財産も築くことが出来ました。しかし、あなたはこの間、なんにも変わっていないでしょう。もちろんこれは憶測ですが、たぶん、変わっていないでしょう。あなたは国や社会の為にいままで何か役に立つことをやりましたか、あなたには大切にすべき地位や名誉はありますか、あなたには守るべき財産や家族はありますか。そうでしょうね、ないでしょうね。それなのに、あなたなぜそんなに幸せそうというか、満足そうな顔をしてネコなんかと遊んでいられるのでしょう。もし神様がわたしたちのことを公平に見てくれていたら、わたしはあなたなんかよりも十倍も百倍も幸せになっていいはずです。ねえ、そうでしょう。もう、こうなったら、はっきり言わせてもらいましょう。わたしはお宅のような人間が居ることは、まあ、お宅にも何か事情があるんでしょうから、わたしもそれなりに理解しているつもりなんですがね、でも、お宅ん゛無邪気な子供のように幸せそうな顔をしてネコと遊んでいるのを見るとなぜか無性に腹が立ってきてしょうがないんですよ。わたしがいままで社会のためにやってきたこと、お宅は何にも知らないでしょう。さっきいったほかにもまだまだいっぱいあるんですよ。企業のあり方についての会議やシンポジウムに積極的に参加したり、住みやすい町作りのために地域の会合やボランティア活動に参加したり、事故や災害、それに貧困や飢餓で困っている人々のために寄付をしたり、慈善活動をやったりとね。ところが、お宅らはそういう社会活動は、自分たちとは関係ない思ってまったく無関心である。その一方では何かと援助を受けるだけ受けといて、それがさも当然であるかのような顔をしている。一度でもありがたいと思ったことがあるんだろうか。おそらく感謝したことなんか一度もないんだろうね。それどころか当然の権利であるかのように思っているでしょう。一人前の社会人としての義務も果たさず、ほんとうに度し難いというか、無責任極まりないですよ。とにかく、お宅らはわがままなんですよ。自分かってなんですよ、そうは思いませんか。わたしたち一般人から見たらお宅らは、一応表向きは社会的弱者ということで、同情を受け援助されるべきものということになっているが、だが実際は、わたしたちが一生懸命に秩序を守り社会を発展させ生活レベルを上げようとすればするほど、なにかにつけた妨害し社会を悪くしよう悪くしようとしているかのようにしか見えないというのが、偽らざる気持なんですよ。だから、もしお宅らが居なかったらどんなにかスッキリするだろうって、、、、ふう、少し言い過ぎましたかな。見たところ傷ろの腫れはまだ引いてないようだし、痛みもまだ相当なものでしょうに。そんなあなたに対して、少し酷でしたかな。ホームレスだからといって、幸せになってはいけないという法はないですからね。それこそ個人的な問題ですからね。これじゃまるで私があなたの幸せを妬んでいるみたいですよね。ワッ、ハッハッハッハッハ。まあ、そんなことありえないですよね。私よりあなたのほうが幸せだなんて、笑い話にもならない」
「どうしたタイガー、お前なんか感じるのか、落ちつきないぞ、なんか気になることがあるのか」
「あなたって云う人はほんとうに何を考えているんでしょう。少しぐらいは私の言葉に反応しても良いでしょうに。そうか、どうやらわたしは、あなたのことを最初から、私たちと同じ人間とみなしていたみたいです。それだからこそ、わたしはあなたのことが気になり、批判的に見ていたようです。でも、もしも、もしもです、あなたがライオンに噛まれても笑っていられるような、また、こんな真昼間から、地べたに寝そべってネコと無邪気に遊んでいられるような変わった人間だったら、わたしはあなたの言動に本気でいらだったり、腹を立てたりすることはないでしょう。なぜなら、あなたがどんなに幸福そうな顔をしていようが、それは私たちが決して知ることが出来ない世界の幸福でしょうから。もう、これ以上なにを話しても無意味なようですね。でも、わたしはそれほど忙しい身ではないですから、もう少しここにとどまって、私がこの三十六年間やってきたことを詳しく話させていただきます。それを聞けばあなたはきっと、私のほうがあなたよりもずっとずっと幸せであると思ってくれるでしょう。わたしはT大学を、ええ、正式な名称をいうと、なんか自慢しているように聞こえるので、イニシャルでTといわせてもらいます。そりT大学を卒業した後、今でも一流と呼ばれる会社に入りました。最初はやはり大変でした。なにせ、それまでと違って、朝決まった時間に起き、満員電車に揺られて会社に行き、そしてなりない仕事を。とにかく右も左もわからない新人でしたからね。でも、意外とスムーズに仕事に慣れましたね。わたしには不思議なほど適応能力があるみたいです。すぐ仕事に夢中になって、やりがいを感じるようになりました。満員電車だって初めはこれは何事かと思いましたが、そのうち慣れて来るにしたがって快感になったというか、今でもその当時のことを懐かしく思い出しては、ときどき乗ることがあるんですよ。良いですよね、あの緊張感が、なんか力が湧いてきそうで。あの頃はまだ私にとっては青春みたいなものでしたから。それからはとにかく順調でした。会社が、日本の高度経済成長の波に乗ってどんどん大きくなって行ったときでしたから。わたし自身もやればやるほど給料が上がっていくということで、ますますやりがいを感じるようになっていきました。でも、わたしは決して猛烈とか仕事一筋とかいう訳ではありませんでした。そうですね、八分ぐらいの力と云いますか、いや、やるときはもちろん真面目ですよ。一生懸命ですよ。それでも、そうですね、自分から言うのもなんですが、自然と他のものをぬきんでるようになっていきました。そうですね、気がついたら上司や後輩から信頼されるような存在になっていたというんでしょうか。そして、二十五歳のとき結婚しました。その後も仕事は順調でした。プライベートも楽しく毎日が充実していました。朝決まった時刻に起き、決まった電車に乗って会社に行き、決まってはいたがやりがいのある仕事をやり、そして、決まったように妻と子供が待つ家に帰ってくるという毎日でしたが、とにかく楽しかったです。こんな日々が永遠に続けば良いなあ知思うくらい充実してました。とにかく幸せだったでしょうね。今でもそうなんですけどね。当時は家に帰ってきて、冷えたビールを飲みながら、大好きな巨人戦のナイターを見るのが、なによりの楽しみでした。そして二十九歳のとき課長に昇進しました。みんなが祝福してくれましてね、とても嬉しかったです。その後も順調でした。子供たちも健康に育っていきましたし、とにかく申し分のない充実した毎日でした。いや、、毎日というより歳月といったほうが云いでしょうね。一年というのは、まず春の公園の花見に始まるんだ。そして、五月のゴールデンウィークのキャンプやドライブ。夏休みは家族で国内旅行だろう。秋には会社の運動会と社員旅行。くれにはクリスマスパーティと忘年かい。そして、新年は初詣といったぐあいに。あっ、それから時々のゴルフコンペや学校の父兄会。それにけっこう頻繁に冠婚葬祭もあったね。それから毎年ではないが、海外旅行だろう、その他にも色んな行事や活動に参加したりしてるうちに、これといった事故や事件にみまわれることなく、あっという間に過ぎ去っていったという感じですね。ちょうどそのころでしょうか、それまであまり好きでなかった自民党が好きになっていたのに気がついたのは。そして、三十二才のとき、わたしは一大決心をしました。それまでこれといって不満のなかった会社を辞めて新しく自分の会社を創ったのです。わたしはけっこう用心深いというか、完全主義者というか、なにかをやるときはいつも論理的に徹底して考え、きちんと計画をたて、ある程度予想をして行動するタイプですから、うまく行くのは当然だったかもしれません。会社は飛ぶ鳥を落とす勢いで発展していきました。社員も見る見る増えていきました。そして、五年後には株式を上場するまでになりました。でも、その間、わたしは少しも大変だとか、苦しいとか感じたことはありませんでした。むしろ人生のなかで、最もやる気と生きがいを感じていた時期といっても過言ではないでしょう。子供たちも問題なく成長し、皆それぞれにT大学を卒業後有名企業に就職してくれました。ほんとうに何も言うことはありません。自分から言うのもなんですが、わたしは成功者だと思っています。何の不満もなく、充実した人生を過ごして来たと言っても良いでしょう。そうですね、まあ、しいて言うなら、あの時ぐらいでしょうか。あの時は、さすがに夜眠れませんでした。生まれて初めてでしょうね、一睡も出来ずに朝を迎えたのは。悔しいというか、いったいどうしたんだろうかとか、なにがいけなかったんだろうかとか、色々と反省したり思い悩んだりして、その後も二、三日はほんとうに目覚めが悪かったですよ。それまで家族同然のように思っていた社員が突然組合を作ったんですからね。はっきり言ってその当時、わたしの頭の中は、いつも業績を上げ会社を大きくすることでいっぱいでしたよ。でもそれは、究極には社員の為にもなるということですからね。社員の生活を向上させ、それぞれの人生を素晴らしいものにしてあげたいという親心があったからですからね。いったい彼らかなにが不満であんな行動に走ったんでしょうね。誰かにそそのかされたとしか思えないですよ。私ほど社員を大切にして、会社を経営してきた人間は他には居ないと思いますよ。なんか裏切られたような気持でしたね。まあ、経営者仲間からは、これで立派な会社として世間から認知された証拠じゃないかとか、ますます会社が発展する兆候じゃないかとか言われて、慰められましたから、ほどなく眠れるようになりましたけどね。そうそう、そうなんですよ。社員というのは、経営者が社員のために考えているほどには、会社のためには何にも考えてないんですよ。お宅らと同じでみんな自分勝手で我がままなんですよ。わたしがどんなに会社のため社員のために知恵を絞り神経を使い孤独な決断をしてがんばってきたか、ときには言いたくもないお世辞を言ったり、下げたくもない頭をとげたりしてきたか、なんにも判っちゃ居ないんだよ。たとえて言うなら、自分ひとりで大きくなってきたような顔をして、親を批判したり馬鹿にしたりしながらも、実際は、親のすねをかじって生活している世間知らずな子供のようなものですよ。彼らは視野が狭いために、ほんとうの社会の仕組みやなにがほんとうに社会を動かしているかが判っていないので、自分では何ひとつ決定できずに自分の親のように会社に頼り切ってと云うか、寄りかかってというか、いざというときにはこれまた何ひとつ責任取らずに生きている万年青年のようなものですからね。そう言えばこんなことがありましたね。わたしが勇退を決意する二、三年前のことでしたが、社内にこんな噂が広まったことがありました。内の社長はほんとうは無能じゃないかとか、指導力がないんではないかとか、もしかしたらボケたんではないかとか、今すぐにも世代交代が必要なんじゃないかとか、ひどいもんですね。会社が大きなトラブルもなく順調に行ってる時にですからね。何にも判っちゃいないんですよ。誰の目にも判るように、先頭にたってですよ。目立つことをやらないからそう見えるんでしょうけど、でも、どうでしょう、たとえばこんな場合、会社に将来を左右するかのような危機がおきたとしましょう。そのとき社長がリーダーシップをいかんなく発揮して、危機を乗り超えたとしましょう。おそらく社員たちはみんなその社長をすぐれた指導者として褒め称え尊敬するでしょう。でも、どこかおかしいとは思いませんか。そもそもあらかじめ会社に危機などが起こらないように先のことを見通して経営に当たるのが社長としての勤めではないですか。まあ、そうは言っても、こっそり神社でお払いをしてもらったこともありましたし、それからこれはあんまり役に立たなかったですが、占い師に相談したこともあるんですけどね」
《、、、、なんか変な感じがするな、、、、、》
「おや、どうしたんだ、タイガー。何か気になるのか、そんなに驚いた様な顔をして。ああ、もったいない、もったいない」
「まあ、良いでしょう。小さいことですよ。わたしが今まで国のため家族のためにやってきたことに比べたら取るに足らないことですよ。ですから、それほど気にしませんでしたけどね。まあ、社員に判ってもらえなくても、わたしが会社で築き上げた功績が消えるわけではないですからね。これだけお話しすれば、あなたも、わたしが、人がうらやむような成功者で、多くの人々の賞賛の拍手と尊敬のまなざしにかこまれて、どんなにか充実した人生を送ってきたかがお判りいただけたと思います。そして、そういうことなら、当然のようにあなたは、わたしのほうがあなたよりも十倍も百倍も幸せだと思うはずです。ああ、もうたくさん、これ以上話しても意味はない。あなたはいったに何をしているんですか。人がせっかく真剣に話しているときに、聞いているんだか、聞いていないんだか、ネコが食い散らかしたものを拾って食べたりして、汚いと思わないんですか。あなたは変だ。頭がおかしい。わたしはいままであなたのことをなんだかんだと批判めいたことを言ってきましたが、でも、もしかしたら、もしかしたらですよ、あなたが高い見識の持ち主ではないかと密かに期待もしていたからなんです。でも、とんだ期待はずれでした。もういい、たくさんです。あなたはやっぱりまともじゃない。頭がおかしい。もう私は帰る。ああ、無駄に時間を過ごしてしまった。今度妻と一緒に、船で世界一周旅行に出かけますから、もう二度とあなたと会うことはないでしょう。さようなら」
「ああ、怒っちゃったよ。もう少しなのになあ。もう少しなあ、、、、あれ、タイガー、また、面倒なのがやってきたぞ。良いではないか、善がどこまでも善である時代に、報われる時代に生きたのだから、、、、」
《またニンゲンが来たよ》
「こんにちは、福祉課から来ました。やっぱりここでしたか。お怪我のほうはいかがですか。どうして病院を抜け出したりしたんですか。今日は、お客さんをお連れしましたよ。動物園の園長さんと、弁護士さんと新聞の記者さんですよ」
《うるさいなあ》
「おやおや、すっかり眼がさめたみたいだな。どうだい、タイガー、ワシにはちっともわからないんだが、良い人たちなのか、悪い人たちなのか。まあ、まあ、ええ、なになに、いやな人たちが、ああ、あれか、向こうからやってくる二人組みか。なあに、だいじょうぶさ、奴らはどうせ飲んだくれの腰抜けさ」
「ほう、そのネコ、人間と話しが出来るんですか」
「どうだ、おどろいたか」
「ほう、ということは、人間の言葉が判るんですか」
「当たりめえよ。特にこいつはタイガーといってな、言葉がわかるだけじゃないんだ。見ただけで人間が何を考えているか判るんじゃ。まあ、いって見れは天才猫だなこいつは。ワシに何でも話してくれるんだから。どうだすごいだろう」
「ほう、そうなんですか。すごいですね。あっ、わたしは動物園の園長をやっているんですが、長年いろんな種類の動物を扱ってきていて、もうロでは言えないくらいの貴重な経験をたくさんしてきました。そのなかで、それまでは、まったく考えられなかったようなことをする、たとえば、人間に恋したり人間のように道具を使ったりするというようにね、不思議なと云うか変わったというか、そういうことをする動物をたくさんたくさん見てきたんですよ。でも、人間が考えていることが判るなんて、こんなおとぎ話みたいなのは初めてですよ。そうですかすごいですね。そっちのネコもそうですか」
「こいつは、ワカダイショウといってな、それほどでもないな。ネコは見掛けじゃないからな。でも、人間の言う事は良く判るぞ。いや、こいつらだけじゃない、この公園にいるネコはみんな人間のいうことは判るぞ。なにせ、生活が掛かってるからな」
「昼食、いかがですか。持ってきたんですよ。少し遅くなりましたけど。いかがですか」
「あっ、これはこれは、ご馳走だ。でも残念ですね。さっき食べたばっかりで、あっ、そうか、ワカダイショウ、仲間を呼んで来いこっちに食い物があるぞって、行って来い、さあ」
「あのう、おじいさんの名前を聞いてもいいですか。この間はなんかショックで思い出せなかったみたいですけど。どうですか、いくらか思い出せるようになりましたか」
「ナマエ、名前、ワシのか、ない、忘れてしまった、とうの昔に忘れてしまった」
「それじゃ、出身地や年齢でも良いんです」
「うっ、うわあ、思い出したぞ。たしか、トウジョウヒデキっていったかな」
「トウジョウヒデキさんですか。どっかで聞いたことがあるような名前ですね」
「いや、いや、ヒトラーって言ったかな」
「、、、、それじゃ、これからおじいさんと呼んで良いですね」
「おじいさん、怪我のほうはまだ治らないんでしょう。病院に戻られたらどうですか」
「ビョウイン、病院は嫌いじゃ。医者も嫌いじゃ、なんだかんだ言ってうるさいじゃないか」
「それじゃ、怪我は治らないでしょう」
「かまわんさ、時間が経てば何とかなるさ。なるようになるさ。ああ、もう、そんなことよりワシはもう年じゃ、こんな年寄りこれ以上長生きしたってなんの役にも立たないよ。わしのようなものは野垂れ死にしたほうが良いのさ。だいいちお金はどうするんだよ。死ぬべきものは死んだほうが良いのさ」
「まあ、おじいさん、そんなに気を落とさないで元気を出しましょう。お金のことは心配しなくてもいいのよ。わたしたちのほうでなんとかするから」
「なんてやさしいんだろう、やっぱり女の役人さんは違うのう。どうですか、草に坐ってみたら、汚いですが、良いでしょうたまには、そんなに冷たくもないですよ。でも、なんでお金を出してくれるんじゃ、ワシのような者に」
「それはね、おじいさん、そういう社会の仕組みって云うか、決まりなんですよ」
「へえ、ワシは社会のために何にも良い事はしてないよ。もしかしたら迷惑ばっかし掛けているかもしれないよ。それでも、、、、」
「ええ、かまいませんわ。困っている人たちがいたら、どんな理由があるにせよ、助けてあげるのがわたしたちの職務ですから」
「へえ、それじゃ、あそこにいる飲んだくれの奴らも、仕事をせずに朝から飲んでいる奴らでも、それでも良いのかい」
「えっ、ええ、もちろん良いですよ。いくら仕事をしたくても仕事がなければしょうがないですからね。どんな人手も助けてあげるというのが、わたしたちの社会の大切な考え方ですから」
「へえ、たまげた。ワシは税金を払ったこともないし、働いたこともないのに、それでも良いのか」
「ええ、良いですよ」
「へえ、たまげた、それじゃネコでも助けてくれるのかい」
「えっ、ネコ、ネコですか、それは、、、、」
「おい、なあ、聞いたか、ネコはだめみたいだぞ。まっ、良いか。あっ、そうだ、もしかしたらワシはとんでもない悪党かも知れないぞ。それでも良いのかい」
「ええ、かまいませんよ」
「おい、タイガー、聞いたか、悪党でも助けてくれるんだってよ。お前たちはどうしてるんだ。誰かが仲間の食い物を横取りした場合、なになに、そうか、みんなで引っかいたり噛み付いたりして追い出すのか。そうだろうな。それにしても変だよな、お金っていうのは働いてその報酬としてもらうのに、なんにもしないのにもらうなんて、まるで盗人みたいじゃないか。それじゃ、怠け者はますます怠けるし、働き者はますます嫌になるじゃないか。どうもおかしい、納得できねえ」
「でもね、おじいさん、世の中には色んな場合があるでしょう。たとえば、病気とか体が弱いとかで働けない人とか、それに働きたくとも仕事がないので働けない人とか、そういう人たちは自分から望んでそうなった訳ではないでしょう。わたしたちの社会がそうさせているんだから、そこでわたしたちの社会はそういう人たちの生活を援助するために、みんなで相談して決まり事を作って、つまり法律を作って、それで生活に困った人たちを助けることにしているのですよ。わたしたちもその法律に基づいてやっているのでいよ」
「へえ、そんなこといつ決めたんだ」
「そうね、判りやすく言うと、日本が戦争に負けて、そのときみんなが集まって過去のことや未来のことを考えて日本国憲法というものを作ったの、そして、それを基本にして、さらにわたしたちが生きていくために必要なたくさんの法律を作ったの、そのときからよ」
「へえ、知らなかった。おい、タイガー聞いたか、お前は知っていたか、みんなが集まって考えて決めると、盗人は盗人でなくなるんだって、なあ、お姉さん、そういうことだよね」
「あっ、ちょっと良いでしょうか。わたしはこのたびの動物園の事故のことで園長さんから相談を受けていましたので、今日はいっしょにここにやってきました。弁護士をやっています。それで皆さんよりは多少法律に詳しいと思いますので、少し話をさせていただきます。なんか、おじいさんは無理なことをいって、せっかくおじいさんの力になってあげようとしている福祉課のお姉さんを困らせているように見えるんですが。どうでしょう、おじいさんは、もしかすると法律というものを間違って解釈しているように思われるんですが、いかがでしょう。いや、ほんとうは何もかも知っていて、あえて知らない振りをしているだけかもしれませんが、でも、このさい非礼を恐れずに率直に言わせていただきます。いいですか、おじいさん、よく聞いてくださいね。法律という者は、わたしたちが安心して生きていくためにはどうしても必要なものなのです。なぜなら、わたしたちの社会という者は、いつの時代でも、他人に迷惑をかけたり傷つけたりする人がいますからね、そんな犯罪や、それから事故やトラブルを解決するためには、前もって、こういうことをした場合にはこういう結果が待っている、つまりこう云う罰が下されるということを、みんなの約束事として、大勢が集まったところで相談して決めておかなければならないのです。その約束事が、つまり判りやすくいうとルールですが、それが法律なんです。ですから決して犯罪者が容赦されることはありません。もちろん法律は、揉め事を解決するだけのものではありません。わたしたちが目標といる社会を作るために、こういうことをしてはいけないとか、こういうことは積極的なやらなければいけないということが、政治や経済や教育や生活など、社会全般に渡って、決められているのですよ。たとえばですね、どんなに貧しくても学校にいけるようにするためとか、誰でも好きな職業につけるようにするためにとか、弱い立場のことを助けてあげるためにとか、そのほかにも私たちの生活を豊かにする為にはどういう事が必要かという事について、あらゆる方面に渡って隅々まで細かく決められているのですよ。ですから法律というものは、とくに現代のような複雑や社会にあっては、ほんとうに必要不可欠なもので、わたしたちが生きていくうえで道しるべとなる大切な大切なものなんですよ。それからここでいう、私たちが目標とする社会について語られているのが、先程ちょっと話がでましたが、憲法というものなんですよ。それは簡単にいうと、法律の上にあってというか、法律を作るときの元になるものであって、そこにはわたしたちが目指す社会、いわゆる私たちが理想とする社会のあり方や基本的な考えが述べられているんですよ。人間としての権利を何よりも大事に使用とか、人間はとにかく自由で平等であるとか、戦争のない平和な世界を作るために努力しようなどしてうことが述べられているんですよ。あっ、それから、今わたしたちが話題にしている事も述べられているんですよ。それによると日本国民である限り誰でも、人間らしく健康で文化的に生活出来るように保障されているんですよ。だから困っている人がいたら、誰であっても、どんな理由であっても、援助を受けられるようになっているんですよ。ですから援助を受ける事は決して悪い事ではないのです。ましてや、やましいとか恥ずかしいなどと感じる事もないのです。当然の権利なのです」
「ようするに、あなたは、ワシは人間らしい生活をしてないって言いたいんだね」
「いや、そんな事は言ってません、曲解ですよ、おじいさん」
「それにしても、たまげたな。何にもしないのにお金をくれるって言うんだから。なんかわかんねえんだけど、普通人から物をもらうときは、少しぐらいは頭を下げるもんだけどなあ。それが当然の権利かよ、なんか変だよな。おい、タイガー、お前たちだって、食い物をもらうときはちっとは申し訳なさそうな顔をするだろう。みんなが集まって考えて決めるってすごい事なんだな。あっ、そうだ、どうだタイガー、お前たちも人間のように集まって、色んなことを決めてみたら。喧嘩をしないようにしようとか、みんなで食い物を分けて食べようとか、そしたら少しは仲良くなってあんないじけた猫は出なくなるかもしれないよ。でもなあ、決めたからといって、お前たちのその鋭い牙や爪が消えてなくなるわけではないからなあ。こりゃあだめか。まあ、良いか、、、、いやあ、それにしてもほんとうにすごいな、そんなにすごい事が出来るなら、憲法や法律っていうのは、神様や王様みたいなもんなんだ。えらいんだ、、、、」
「うっ、えっ、え、えらいというか、そうですね、もしかしたら現代の社会においては、それは神様や王様の代わりをしているのかもしれませんね。なぜなら、憲法や法律には、神様のような全能さと王様のような権威がありますからね」
「ところでさ、その憲法や法律というのはいったいどこに居るんだい」
「えっ、はあ、どこに居るかですか。居るって云うか、それは文章となって、本の紙の上に書かれてありますよ」
「うえ、たまげた、紙の上に書かれてあることっていうのは、そんなにえらいのか。そんなに力があるのか、こりゃあ、たまげた。なあ、タイガー、お前たちも何かを決めて紙の上に書いたらどうだい。そしたら人間たちからもっともっと大事にされるかもしれないぞ。えっ、こんな真ん丸い手じゃ字も書けないって、そうか、そうだよな、こりゃあ、だめか、まあ、良いか」
「あのう、おじいさん、良いですか、紙の上に書かれてあるということで力があるんじゃないんですよ。みんなで集まって考えて決めた事だから力があるんですよ。みんなが守るべき大切な約束事だから力があるんですよ。もしもそれを守らないものが居たら、仮にそれが総理大臣であっても、社長であっても罰を加えることが出来るんですよ。とにかく誰であってもそれに逆らうことは出来ないのですよ」
「へえ、偉いだけじゃなくって、強いんだ」
「まあ、強いというか、とにかく、私たちが社会生活をしていくためには本当に守らなければならない大事な約束事なのです。誰であっても従わなければならないのですよ」
「へえ、そんなに大事な約束事なの。それなら、あれか、雲や木や花やネコや天気も従わなければならないんだろうね」
「クモ、キ、テンキ、、、、」
「そうさ、あの空にある雲だよ。ここに生えてる木だよ。今日の天気だよ」
「あっ、なんか、こっちが変になりそうだ。良いですか、おじいさん、よく聞いてださい、。憲法というのは人間のためにあるんですよ。雲とか木とか天気とはまったく関係ないんですよ」
「そうかな、ワシには大いに関係があるぞ。だって、前にいったじゃないか、憲法というのは、生活のためにあるんだって、ワシはいつも雲を眺めたり、木に寄りかかったり、ネコと遊んだり、天気のことを気にかけたり、みんなワシの生活には関係がある、なくてはならないものばかりじゃないか。それなら雲や木やネコや天気だって、憲法に従わなければならないんじゃないのか。それは、おかしいじゃねえか、、、、まあ、良いか、、、、滅びるものは滅びりゃあいいのさ。ワシが死んでも、また新しい生命が生まれるんだから。死は喜ばしいことではないか。水だって高いところから低いところに流れるんだから、なるようになるさ」
「もう、困りましたね。どうしましょう。おじいさん、良いですか、よく聞いてくださいね。とにかく憲法というのは人間のためにあるんです。さっきも話しましたが、神様のように全能で王様のように権威があって、人間のためになるあらゆることを決める事が出来る大切なものなんです。ですから、おじいさんはもうこれ以上変なことを言わないで、福祉課のお姉さんの言うとおりにすれば良いんです。そうしたほうが良いですよ」
「、、、、そんなに偉いんだったら、雲や木やネコや天気も従わせりゃあいいのに。あっ、そうだ。昔々こんな噂話を聞いたことがあるんじゃよ。自衛隊っていうのは憲法より強いってな、、、、」
「あっ、それはおじいさんの聞き違いじゃないですか。というよりも根本から間違ってますね。だって憲法というものは考えて決めたことが紙の上に書かれた文章ですが、自衛隊というのは、誰にも判るように形があって、実際に動くものですから、どっちが強いとか弱いとか比較できるものではですからね」
「、、、、あっ、それから、こんなことも聞いたよ。自衛隊はアメリカより弱いって、、、、まあ、良いか、なるようになるさ、滅びるものは滅びりゃあ良いのさ。破壊されるべきものはどんどん破壊されれば良いのさ。衰えは喜ばしいかな、ある町が衰えれば必ずどこかの町が繁栄するだろうから。水だって高いところから低い所に流れるんだから、なるようになるさ、、、、」
「おじいさんはすぐそうやって自分の世界に入ってしまう癖がある見たいですね」
「どうしたんでしょう。仲間を呼びにいったネコ、なかなか戻ってきませんね。ほんとうに呼びに行ったんでしょうか」
「おじいさん、病院が嫌なら施設のほうでも良いんですよ。わたしたち福祉課としてはこのまま放っておくことは役目柄どうしても出来ないんですよ。本当は怪我が治るまで病院に居てもらいたいんですけどね。そのあとはおじいさんの好きなようにして良いんですけどね。なにしろ、世間から注目を浴びてる事故ですからね」
「なんかますます悪くなりそうだな」
「そんなことないですよ。栄養のある食事が取れるし衛生的ですから」
「おじいさん、この方はおじいさんのためを思ってやっているんだから、わがままなことを言って困らせないようにしようよ。体が弱っているときに変なものを食べてこれ以上悪くしたらどうするんですか」
「なに大丈夫さ。ワシはいままで草を食べようが、何を食べようが病気になったことなど一度もないぞ。なぜだと思う、うまいからじゃよ。うまければ体に悪いことはないんだよ。ワシは腹が減ったから食べるんじゃないんだよ。うまいから食べるんじゃよ。まあ、良いか、どうせワシなんかこれ以上長生きしたってしょうがないのさ。みんなは何にも知らないんだ、噂を聞いたことがないんだ。ワシがどんなに悪い奴か、とんでもない人殺しかもしれないのに。まあ、良いか、ワシなんか野垂れ死にしたほうが良いのさ。まあ、良いか、なるようになるさ。滅びは喜ばしいかな、たとえこの国が滅びても、どこかにまた新しい国が起こるだろうから。破壊されるべきものは破壊されたほうが良いのさ。破壊こそ最も創造的じゃないか。水は高いところから低い所に流れるんだから、なるようになるさ。どうせワシは人間らしい生活をしていないんだから」
「またですか。またおじいさんの世界ですか。それでは、もうそろそろ今日の本題に入ってはどうでしょうか、園長さん」
「そうですね。では、当事者だあるわたしから話させていただきます。おじいさん、今日こうしてみんなで伺ったのは、実は、この間の動物園での事故のことについてなんですよ。わたしとしては、あの事故がわたしたち動物園側としては何の落ち度もないことを世間の人々に判ってもらいたいのですよ。まあ、色々ありますよね。いろんな人がいますよね。酒を飲んで酔っ払って、自分から入っていったというようなね。よくあることですよね。それなら世間の人たちも納得してくれると思うんですがね。おじいさん、そうなんでしょう。あの日酔っ払っていて、ライオンの檻とは知らずについつい自分から入って行ったんでしょう」
「いや、いや、酔っ払ってなんか居なかったぞ。もともとわしは酒なんか飲まんからな。そうなんだよな、、、、たまにはいいと思ったんじゃ。いつもいつも人間だけが動物を食べているだろう。たまには動物が人間を食べてもいいと思ったんじゃよ。まあ、良いか、なるようになるさ」
「うっ、まっ、そうですか。まあ、まあ、要するにおじいさんが自分からライオンの檻に入っていったということですね」
「おい、そこのクソジジイ、嘘付くなよ。本当は腹へってエサを盗みに入ったんだろう。人殺しのくせに」
「ええ、まあ、このさいなんでも良いんですよ。とにかくおじいさんが自分から入ったということが判ればそれで良いんですよ。そうですよね記者さん」
「でも、まだ、よく判りませんね。それがほんとうに真実かどうか」
「おい、ジジイ、嘘つくんじゃないよ、人殺しのくせに」